江戸のラスト侍たち

 

 

f:id:mitokioquerido:20180804083043j:plain

隅田河畔に建つ勝海舟

今、佐々木譲の『武揚伝』という本を読んでいますが、その前に榎本武揚率いる蝦夷共和国軍に加わり新撰組などとともに薩長の新政府軍と戦い、函館で戦死した中島三郎助を描いた『くろふね』という同じ作者の本で勝海舟のことに触れていますが、おじちゃんが以前読んだ『勝海舟』では、江戸無血開城をした英雄として描かれていますが、以前からこの勝海舟山岡鉄舟などは、本当は薩長に雇われたスパイなどという疑問を持っていました。

勝海舟戊辰戦争のかなり以前から薩摩と昵懇の仲であり、頻繁に薩摩屋敷に出入りしていたそうですし、山岡鉄舟は、幕府転覆を図っていた策士清河八郎を長い間自宅に居候させていました。このこと一つとってもこの二人が反幕勢力に加担していたのは明白でしょう。幕府軍薩長軍に江戸城明け渡しなどはせずに、最後まで徹底抗戦していたらと江戸っ子のおじちゃんは思ったりします。そこには薩摩の間諜になった勝海舟と薩摩郷士西郷隆盛との事前の密約があったのです。

さて、海舟ですが『武揚伝』でも『くろふね』でも口先ばかりのごますり家として描かれています。確かに御家人から軍の最高位の陸軍総裁にまで上り詰めるには、その口先と機を見る才覚に優れた策士であったことは明らかでしょう。

『武揚伝』の中の一節に
「咸臨丸の帰国後、勝麟太郎は幕府から放遂される。航海中に艦長としてはまったくの無能であったことが知れ渡ってしまったし、太平洋上で帰国を言い出すなど、人格の幼さも暴露された。そのくせ、ひとを押しのけても目立とうとする性格である。幕府は勝は海軍にはむしろ有害な人物と見たのだ」
という部分があります。これだけではなく各所で勝海舟の無能振りが出てきますが、恐らくそれに近い人物だったのでしょう。

それとは正反対の人物が、中島三郎助です。日本人として初めてペリーのアメリカの蒸気軍艦に乗り込み交渉し浦賀奉行の与力です。幕末当時の浦賀は外国船が次々と訪れ開国を迫りました。造船家で砲術家でもあった三郎助は、日本にも西洋並みの大砲と蒸気で動く軍艦の必要性をいち早く説いた人物でした。幕府が開いた長崎海軍伝習所の造船学を学ぶ一期生で勝海舟と同期でした。

戊辰戦争の激戦が始まり、幕府軍蝦夷に追い詰められると十代の二人の息子を伴い榎本武揚率いる旧幕府軍に加わり、代々世話になった幕府の恩に報いるため私欲を捨てて戦いました。本陣前衛の千代ヶ岱陣屋を守備し陣屋隊長として奮戦し、いよいよ砦が破られるとき部下たちを本陣に逃がし、自分と二人の息子で薩長に対する最後の抵抗をして、明治2年5月16日銃弾に倒れました。三郎助が戦死する数日前に箱館で壮烈な戦死を遂げた土方歳三と共に、君恩に殉じた“最後のサムライ”の一人でした。

f:id:mitokioquerido:20180804213009j:plain

一方、オランダ留学から帰った榎本武揚は、オランダで製造された蒸気船の開陽丸で薩摩軍と交戦した阿波沖海戦に勝利しましたが、幕府軍は陸戦での鳥羽伏見の戦いで惨敗し、さらに大坂城に留まっていた最後の将軍徳川慶喜が部下を捨てて突然江戸へ逃亡しました。戦意を喪失した幕府軍はなだれを打って敗退してしまいました。勝海舟幕府軍艦をすべてを薩長に差し出せというのを武揚は断り、精鋭艦数隻を率いて薩長軍に抵抗しました。

    榎本武揚

f:id:mitokioquerido:20180804213032j:plain

海戦では榎本武揚率いる幕府海軍は連勝しましたが、幕府軍の敗走に伴い北へ北へと退かざるを得ませんでした。若いときに視察した蝦夷の地に新天地を求めて幕府軍を率いて転戦しました。しかし、西洋式の武力に優る薩長軍に明治2年5月18敗れ去りました。長崎海軍伝習所で一緒に学んだ中島三郎助の戦死とともに自刃しようとする武揚を部下が止め薩長軍に投降します。

その後2年半ほどの投獄生活の後、薩摩藩士で後に総理大臣になった黒田清隆に、その能力を日本のためにと懇願され、新政府の北海道開拓使として働き始め、駐露特命全権公使逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任し日本の発展に力を注ぎました。榎本武揚勝海舟を、幕府軍でありながら薩長の新政府に仕えるなど言語道断という意見も多くありました。しかし、勝との違いは榎本武揚博学のすごさです。伊能忠敬の弟子だった父が従事していた測地術、蘭学の内オランダ語、英語、仏語、造船学、科学、物理、化学、海洋法、航海術、国際法、漢学とあらゆる分野で教授が出来るほどの学問を習得しています。惚れ惚れするほどの江戸っ子気質の持ち主でもありました。しかも私利私欲よりも日本を心から愛する人物でもありました。勝海舟や金儲けの権化坂本龍馬など以上に日本の歴史に顔を出すべき人物だと思います。ただ惜しむらくは決断力に甘さがあり、一歩遅れることがあったので北方へ追い詰められる幕府軍の武揚率いる海軍による海からの支援が数ヶ月早まっていたら、薩長によるクーデターも変わっていたのかもしれません。江戸っ子としてはそれが非常に残念です。

 

 

 

本郷もかねやすまでは

f:id:mitokioquerido:20180728111614j:plain

江戸時代の地図を広げると、現在の東京大学から北の方は畑地とか百姓地になっていて家は中山道に沿ってわずかに点在する程度です。

『本郷もかねやすまでは江戸の内』という川柳の通り、本郷三丁目から北は江戸御府内ではなかったのです。現在の東大の前あたりの旧森川町も淋しくて辻斬りがよく出たそうです。

明治の初期の地図でも江戸時代とそれほど変わりなく、江戸の範囲は狭か ったのですね。

交通手段が徒歩がメインですから感覚的にはそれでも広かったのでしょうが、江戸の初期には百万都市として、現在でいう政令都市として江戸の町は世界一の人口をかかえていたのです。

交通手段があまり無い江戸時代の人たちの健脚ぶりはすごいものです。江戸詰めの紀州御家人(下級武士)の江戸滞在日記に江戸城の藩邸から向島まで花を見に行った翌日は飛鳥山まで往復し、次の日もやはり40キロ以上歩いています。これが普通だったのですね。

芭蕉や明治の文豪の漱石や、昭和の荷風にしても同じように一日40キロほどとよく歩いています。散歩をしだして気がついたのですが、車や乗り物では気がつかない街の面白さが発見できるのです。

今は『本郷のかねやすまでは江戸の内』なんて、まったく馬鹿げていますが歩いてみると自分の住む町にも新しい発見があるかもしれません。

 

 

 

カラス

f:id:mitokioquerido:20180728125502j:plain

 都会で嫌われているもののトップは鳩とカラスだろう。前に住んでいたマンションには鳩が巣くいフン害でひどかった。いくら対策を講じてもすぐに慣れてしまい最後にはベランダごと網で蔽ってやっと防いだ事が あったが、網を張ると住む側もうっとうしくて、仕方なく引越しをした。
だからおじちゃんは鳩が大嫌いだ。

もう一つの嫌われ者がカラスだ。朝早くからカアカアとうるさいし、ゴミを漁り散らかすので迷惑がられている。一説によるとカラスは犬よりも知 能指数が高いそうだ。おじちゃんは犬は飼った事があるがカラスは飼った事がないので分からないが、犬以上だとすると相当なものだ。確かに巣を作るにしても線路の高い鉄塔の上に針金ハンガーで造っているのを見た事がある。

最近はついぞ見かけなくなったがずいぶんと人馴れしたカラスが1羽いた 。いつも自転車置き場の自転車の上にとまり、行き交う人を観察でもしているかのように泰然としている。そばに近づいても脅かさない限り決して逃げない。恐らく人に飼われていたのだろう。本来カラスを飼ってはいけないのだが、このカラスにとっては飼われているのと厳しい環境の都会の 中で活きてゆくのとどちらが幸せなんだろうか。

f:id:mitokioquerido:20180728125611j:plain

このところ中国の環境破壊による異常気象のせいで自然の中で生息している動物たちが里に出没したり、熱帯にしかいなかったものが本州の何処に でも住み着いたりとどんどんと自然が犯されている。それを安易に殺してしまったりする映像がテレビで放映されるが、本来人間のほうが悪いのに 可哀想なことだ。カラスも昔は山に住んでいたのに今では都会が住処になってしまった。最も今の嘴太カラスはおじちゃんの小さい頃にはいなかった。これも自然破壊が進んだ現象の一つなのだろう。

 

 

 

ビリー・ザ・キッド

f:id:mitokioquerido:20180722163223j:plain

ネットを見ていたら、ビリー・ザ・キッドに関することが出ていたので、読み進むと、7年ほど前、ある骨董品店で2ドルで売り出そうとしていた古い写真を、1年がかりで鑑定してみると、アメリカ人が熱狂する「ビリー・ザ・キッド」の写真だと分りました。

この写真をオークションにかけると、驚いたことに6億円の高値で落札されました。ビリー・ザ・キッドは、それほどアメリカ人には人気のある人物のようです。

生まれたのは、1859年ニューヨーク。21歳で射殺されるまでに、21人殺したと噂されています。アメリカでは、義賊としての評価が高いようです。

実際は、アウトローなのでしょうが、世話になっていた雇い主の英国人タンストールが、対立する勢力に殺害されたのを義憤から、あだ討ちしたことが義賊としてのビリー・ザ・キッドの名声を高めていったのでしょう。

友人だった保安官のパット・ギャレットに射殺されたのが、1881年の明治15年です。ニューメキシコ準州だったリンカーン郡でのことで、撃たれた時の最後の言葉が「キェンネス」(誰だ)と、スペイン語で喋った、と言うことです。当時のニューメキシコは、アメリカがメキシコから取り上げた土地でしたので、メキシコ人たちも多く住んでいたと思います。そんな環境では、ビリーもスペイン語が堪能だったと思います。そんなことから、メキシコでも、ビリーは人気があるそうです。

それと、この写真では拳銃が左に見えますので、ビリーは左利きというのが、通説ですが、洋服のボタンの位置が反対なので、左右反対の写真からの推論だと思います。

 

 

ラオスの朝市にて

f:id:mitokioquerido:20180630122041j:plain

朝まだ暗い5時に起き、ホテルから30分ほど離れた、朝市の開かれる広場まで歩きました。

まだ暗さが残る中、沢山の人たちが集い、荷物を下ろしています。各自めいめいに、場所割りに沿って、店を開いてゆきます。野菜が多いですが、海のないラオスでは、いろいろな川魚が並べられています。トノサマガエルほどの大きさの、生きたカエルも、沢山売られていました。 

f:id:mitokioquerido:20180630122121j:plain

 

f:id:mitokioquerido:20180630122646j:plain

 言葉はラオ語なのですが、タイ語が通じます。タイバーツも通用します。二次大戦中までは、フランスの統治下にあったせいで、フランスパンのサンドイッチを売る屋台が、そこここにあります。

f:id:mitokioquerido:20180630122427j:plain

f:id:mitokioquerido:20180630122506j:plain

f:id:mitokioquerido:20180630122556j:plain

 日本が、アジアで欧米の軍隊を駆逐したので、ラオスベトナムインドネシアは戦後、独立することが出来ました。ここラオスでも、日本のODAのお金で、空港やタイとの国境にかかる大橋や、道路の整備がされています。まだまだ発展途上ですが、中国がこの国にも食指を動かし、領土の拡大を狙っています。

人々は、まだ裕福ではないですが、とても素朴な感じがします。中国の進出でカネ、カネの思想に染まらずにいて欲しい、とつくづく思いました。

帰りがけ道路で花を売る少女の微笑がそんな想いを杞憂するように爽やかでした。

 

f:id:mitokioquerido:20180630122731j:plain

 

クラシックカメラ

 

f:id:mitokioquerido:20180523095819j:plain

f:id:mitokioquerido:20180523095843j:plain


中古カメラ屋さんを覗くと、昔使っていたカメラなどが並んでいて懐かしい思いをすることがあります。しかし、フイルムの時代の写真はとても難しく、現在のようなデジタルと違って、ただシャッターを押せばよいというものではありませんでした。

第一フィルムを現像するまでは、どのように写っているか知りようもなく、随分と失敗写真を生産したりしました。ですから、今こうした昔のカメラを見ても、大変だったなーという思いが先に立ち、もう一度使ってみたいなどという考えは浮かんできません。

 

それにフイルムというものが、大層かさ張りました。近くや国内の旅行の場合はともかく、海外となると大変でした。特に発展途上国に行くときは。特にプロなどが使うリバーサルフィルムというフイルムは、ヨーロッパやアメリカにおいてさえ、簡単に手に入りませんでした。現在でもそうでしょうが、当時は特に、写真という文化において、日本ほど突出している国はありませんでしたから、色々なフイルムが、すぐに手に入るという環境は、世界でもそうはありませんでした。

ですから、アフリカや南米やインドなどへの長期旅行の際は、フイルムだけでトランクの半分を占領してしまう始末でした。それが今のデジカメでは、切手ほどの大きさのメモリーカードを数枚持って行くだけで事足りてしまいます。しかも、かなり辺鄙なところ以外の街中では、どこでも入手しやすくなりました。

そんな大変なフイルム時代のクラシックカメラを見ていると、時代の変遷による文明の進化をつくづく有難く思います。

 

 

街から消えつつあるもの

ここ何年かで町の風景から消えてゆくモノがあります。郵便ポストもだいぶ減りました。メールが一般的になったせいでしょう。

電話ボックス。赤電話はすでに消え去っていますが電話ボックスもめっきり減りました。携帯電話が人口よりも多く出回っていますが、それが原因です。

f:id:mitokioquerido:20180630115918j:plain

 

f:id:mitokioquerido:20180630115932j:plain


板張り外装の家もごく限られてきました。おじちゃん世代は懐かしさも感じて、好きなんですが防火の観点から新しく建てる場合は、防火材の使用が義務付けられていますから、いづれこうした風情のある日本家屋は消え去る運命にあります。惜しいです。

 

f:id:mitokioquerido:20180630115958j:plain

新しいもの全てが"良い"わけではないのですが、世の中が世知辛くなってきたので我慢しなくてはならないところなのでしょう。しかし、日本独自の板張りの家などは、何とかして残してほしいものです。日本人のことですから、板に塗る塗料に耐熱性の防火剤をコンクリートと同様の防火効果のものを作ることなど、そんなに難しいことでもないように思いますが、何かの思惑でも働いているのでしょうか。

そうしたものが出来れば室内の木材にも塗布して、火災から守ることも出来るはずなのですが。ステルス技術を発明した日本人に出来ないはづはないと思うのですが、如何なものなのでしょう。

 

 

ふたたびの新撰組

f:id:mitokioquerido:20180520111044j:plain

京都 壬生寺にある近藤勇銅像


金儲けだけが目的の坂本竜馬が、長州に薩摩を介して、イギリスの武器商人グラバー(長崎のグラバー邸で有名)から、最新式の大砲やら鉄砲やらを、大量に仲介して大金をつかみ、長州との宥和を取り持ち、幕府を倒す結果につながりました。

そして、さんざん攘夷(外国人を排斥する)、攘夷と言っていた長州でしたが、途中、長州とは犬猿の仲だった薩摩が、幕府を裏切り長州と手を結び、薩長軍として幕府側に、刃を向いたときあたりから、形勢が変わってきました。

幕府寄りだった諸藩も、最新式の武器を備えた、薩長の軍事力の強さに、次々と変節し、薩長軍に与してゆきました。新撰組にとって、京都での最後の戦いであった、鳥羽伏見の戦闘では、この武力の凄まじさが炸裂しましたが、幕府軍にも、フランスがついていましたので、徳川慶喜がいる大阪城に、1万5千の幕府軍が結集すれば、5千しかいない薩長軍に、十分対抗できる余力があったはずです。

しかし、想像も出来ないことが起こりました。なんと、総大将である慶喜が、突然、変装をして部下を置いて、大阪城から船で、江戸へ逃げ帰ってしまいました。沈没した韓国のセウォル号の船長のようにです。こんな将軍は、前代未聞です。これでは家臣の士気も、しぼんでしまいます。これを契機に、幕府軍の総崩れの戦いが始まりました。

明治になり、新政府を作った薩長ですが、あれほど攘夷といって外国を嫌っていたのに、まるで猿真似のように、洋服に身を包み、西洋の社交場の物まねの、鹿鳴館を作り、すっかり外国かぶれとなって行きます。

尊王攘夷と、言っていた薩長の連中は、天皇を利用して、自分達が、権力の中心に、座りたかっただけでした。その証拠に、下級武士だったり、使用人だったりしていた者たちが、明治になって伯爵だの、子爵だのと爵位を、私にしています。

 

「勝ち馬に乗る」、日本人として、最も忌み嫌う言葉です。世の中は、打算だけを考えれば、その方が得かもしれませんが、人間としての誇りは、微塵も感じられません。裏切った薩摩や、外国かぶれになった長州や、部下を置いて、さっさと逃げ去った慶喜と比べ、負けるのが分かっていても、変節や裏切りなどしない新撰組の潔さ、これこそ日本人の鑑だと思います。真の日本人の、新撰組の生き様は、現代の日本人にとっても、とても重要な指針になると思います。

 

 

ふるさとへの思い

f:id:mitokioquerido:20180520115006j:plain


永井荷風の小品『虫の声』に
「東京の町に生まれて、そして幾十年という長い月日をここに送った・・・。
今日まで日々の生活について、何のめずらしさも懐かしさをも感じさせなかった物の音や物の色が、月日の過ぎ行くうちにいつともなく一ツ一ツ消去って、遂に二度とふたたび見ることも聞くこともてきないと云うことが、はっきり意識せられる時が来る。すると、ここに初めて綿々として尽きない情緒が湧起って来る-別れて後むかしの恋を思返すような心持である。」
「樹木の多い郊外の庭にも、鶯はもう稀に来て鳴くのみである。雀の軒近く囀るのをかしましく思うような日も一日一日と少なくなって行くではないか。」

という文章があります。東京小石川に生まれ、東京の町で育った荷風にしてみれば、年々薄れ行く鳥のさえずりや、物売りの声や町の変貌にある喪失感を感じずにはいられなかったのでしょう。「江戸耽美主義」を標榜されていた荷風にとっては、ふるさとである東京の、年々というより日々変わり行く有様に我慢ならなかったのでしょう。

誰しも、ふるさとの急激な変貌を喜ぶ人は多くはないでしょう。しかも、そこに日々生活し、町の散歩を生活としていた作家荷風にとっては、つい先日歩いた場所に新しいビルが建ったりするのを見せ付けられるのは我慢が出来なかったのでしょう。特に、歳をとると急激な変化に対しては違和感を覚えるようになるものです。

 

 

酒飲みは奴豆腐に・・

 

f:id:mitokioquerido:20180519223322j:plain


川柳に「酒飲みは やっこ豆腐に さも似たり はじめ四角で あとはぐずぐず」というのがありますが、おじちゃんは下戸なので、酔っ払ったことがありませんから、よくは分りませんが、夜中に繁華街を歩くと酔っ払って、グズグスになっている人を見かけます。電車でも見かけることがあります。

 

豆腐といえば、昔から安くて庶民の食べ物だったようです。江戸時代には、豆腐料理のレシピ本「豆腐百珍」なども流行り、豆腐料理が大人気だったそうです。大分前ですが、根岸にある有名な豆腐料理の、べら棒な値段の料理屋に行ったことがありますが、出てくる豆腐料理は全て同じ味、これが「豆腐百珍」を模した料理なの?と思うほど、ひどくて話にならない不味いものでした。(食べたことのある人全員が、高くてマズイを連発しました)

 

街から豆腐屋さんが消えてから久しいですが、それまで嫌いではなかった豆腐が、スーパーものになってからは、とんと箸が進まなくなり、遂には食べなくなりました。

さほどに豆腐の味は、変わってしまいました。今のスーパーのは豆腐ではなく"豆腐もどき"です。今でも、京都の豆腐屋さんのものは頂きますが、そこらの豆腐は食べられません。

f:id:mitokioquerido:20180519223733j:plain

そこで一句

「金儲け 豆腐作りにさも似たり かたちよけれど 味はぐずぐず」

 

 

都電 路面電車

f:id:mitokioquerido:20180519082234j:plain

師子文六が、こんなことを書いている。『都電ぐらい乗り心地のいいものはない。まず軌道の上を走ることが、魅力である。』『あのノロノロ都電が、思ったよりも早く、目的地へ運んでくれるのである。乗降に手間のかからない点もあるが、ノロノロにみえて、あれで、見かけによらず、速いのである。朝の六時ごろに、池袋から数寄屋橋まで、都電に乗ると、十七分で行ける。これは、地下鉄よりも速いのである。』

 

不忍通りに走っていた都電は、はっきりとは覚えてはいないが、池袋から上野広小路まで走っていたように記憶しているが、なにしろ40年も昔のことだから、判然とはしない。

都電は、今のバスよりも余程便利で、分かりやすかった。車の交通量の増加に伴い、おそらく、地方出の政治家や役人たちが、廃止してしまったのだろう。

今、全てが残っていれば、地下鉄のように迷うことも、階段を、嫌と言うほど、上ることもなかっただろう。全て新しいものが素晴らしく、便利だとは限らない。何でも壊してしまうのは、テロと同じようなものだ。

 

アメリカが作った憲法は、70年近くも後生大事に守りながら、100年以上歴史ある、日本人の知恵でもある都電網は、完全に壊して、不便にしてしまう。なんか違うような気がするのだが。

 

 

唐人お吉と下田

 

f:id:mitokioquerido:20180512145451j:plain

お吉がわずかの間やっていた小料理屋   しかし、すぐに閑古鳥が鳴き店は閉店しました

 

以前賑わっていた下田は、嘘のようにひっそりとしていました。確かにおじちゃんも、伊豆はサービスが悪くて、食べ物が悪すぎたので、何十年も敬遠していました。

しかし、最近は少し変わってはきたようですが、実情は、よくは分かりません。人が少ないところから推測すると、やはりあまり変わっていないのかもしれません。

とにかく海と景色が、きれいなのと、温泉という恵まれた環境ゆえ、観光業者が、殿様商売をしていたのは、間違いありません。それに、全てがびっくりするような値段だったからです。

 

f:id:mitokioquerido:20180512145429j:plain

下田の全盛期名残のある柳橋界隈の花街

 

話は変わりますが、下田の観光名所の目玉は、やはり「唐人お吉」さんでしょう。今でも観光の目玉になっていますが、生前はこんな哀れな生涯を送った人も少ないでしょう。

 

ペリー来航のあと、領事として、日本にやってきたハリスの身の回りの手伝いに上がった、当時下田でナンバーワンの芸妓だったお吉でしたが、実態はお妾でした。お金のためと、甘言により渋々妾になったお吉でしたが、何があったか、ハリスさん、お吉が気に入らずに、わずか三日で暇を出されました。

しかし、一旦外人の妾になった女性への風当たりは、当時の日本では、すさまじかったのです。支度金としてもらったお金で、「安直桜」なる小料理屋を始めたのもつかの間、狭い下田の町です、わずか一年足らずで客足が絶え、お吉は芸妓をはじめとして色々な仕事に尽きますが、何処へ行っても、バカにされいじめ抜かれたそうです。

とうとう下田を去り、横浜へ移りましたが、そこでも「唐人お吉」と分かると、蔑(さげす)みといじめの嵐です。

そんな情況におかれたお吉は、だんだんと酒の量が増えて、お酒におぼれていきました。仕事もできなくなり、下田に戻ってからは、乞食のような生活をしていたそうです。そしてある晩、下田港近くの川に、酔って踏み外したのか、覚悟の投身自殺だったのか、定かではないのですが、四十八歳のいじめ抜かれて、やつれ果てた生涯を閉じました。

こんな話を思い出すのも、伊豆を感傷旅行の場所にしてしまうのかもしれません。

f:id:mitokioquerido:20180512150040j:plain

 

 

コーヒー

 

f:id:mitokioquerido:20180515143430j:plain

コーヒーショップで飲むコーヒーには、時として酸っぱいコーヒーに出くわす時がある。

酸っぱさのきついコーヒーの時は、残して、店を出てしまう時が多い。酸っぱいコーヒーを出すところは、大体、古いタイプの喫茶店が多い。最近は、チェーン店のコーヒーショップが増えて、喫茶店がめっきり減少しているが、コーヒーの不味さも原因の一つなのかもしれない。

 

外国のカフェで、酸っぱいコーヒーを飲んだ経験は全くない。これは、緑茶文化とコーヒー文化の、根本的な違いからのものだろう。お金を出して、酸っぱいコーヒーが出てきたら、古くからのコーヒー文化圏の人たちは、その店には行かなくなるだろう。コーヒーには、酸っぱいものがあるという輩がいるが、酸っぱさにも程度と言うものがある。舌に残るほのかなものなら、我慢もできようが、酸っぱさが全体の味ともなると、これはもう、我慢できる限界を超えてくる。

 

酸っぱさとは少し離れてしまうが、日本のスターバックスエスプレッソは、イタリアやヨーロッパ諸国のとはまるで違い、デミタスカップの底5ミリほどしか、コーヒーが入っていない。

f:id:mitokioquerido:20180515143424j:plain

スタバのエスプレッソ そのままです

 

あまりに少ないので、間違いていると思い、カウンターに持っていったら、これが標準です、と言われ驚いたことがある。外国での本場のエスプレッソは、小さいカップではあるが、いっぱいに芳醇な濃いめのコーヒーが注いてある。それはヨーロッパの、どの国でも"標準"である。

f:id:mitokioquerido:20180515143410j:plain

とにかく、日本におけるコーヒーの酸っぱさは、異常であると感じる。日本の文化や料理を、多くの外国人が、学びに来ている昨今、日本人も、コーヒーの味にも、大いに関心を持って研究してもらいたい。

 

f:id:mitokioquerido:20180515143437j:plain

セビッチェ

f:id:mitokioquerido:20180512142319j:plain


中南米では、とてもポピュラーな食べ物で、生か多少ボイルした魚貝類に、たまねぎのスライスや、シンエントロという香菜(コリアンダー、今の日本ではタイ語パクチー)を入れて、かんきつ類のライムを搾ってかけます。

ここペルーの屋台では、茹でたトウモロコシなどが入っていましたが、さっぱりとして、お酒やビールのおつまみや、サラダ感覚で、ちょつと小腹が減った時に食べる、ファーストフードです。

生や半ゆでの魚貝類が入っていますから、屋台での飲食は胃腸の弱い方には、お薦めできません。すぐにお腹をこわします。

でも、こういう所の方が、レストランで出されるものよりも、大抵は、とても美味しいので、おじちゃんはよく食べました。お腹もこわしませんでした。こんなことを、嫌がっていたら旅行など出来ませんから。

 

人生は宝くじ

f:id:mitokioquerido:20180512140514j:plain


姪が出産したので、お祝いに暫らくぶりに中央線の西荻窪に降り立ちました。

姪も子供も元気でした。小さいころの姪のイメージが強いので、この子ももうそんな歳になったかと、風雪の流れの速さを感じました。

夜、帰宅すると知人から電話で娘さんの出産が死産だったとの報告がありました。何と気の毒で慰めようもありませんでした。

姪も知人の娘さんも、夫の仕事で海外生活をしています。まったく同じような境遇なのに、まるで天国と地獄のような結果です。

 

数学者のサミュエル・アーベスマンが『事実の半減期』(The Half-life of Facts)の中でこんなことを書いています。


『実はわれわれが存在するということは、すでに天文学的なほど小さな確率によっている。例えばあなたが受精卵だったとき、受精に成功した精子は1億個のうちのひとつだった。
そもそも不成功に終わった生殖行動も多い。そして両親の出会いから、第二次大戦中に祖父が弾丸を避けて生き残り、祖母に出会ったことまでも問題になってくる。だから、どんな人間であれ存在する人は皆、非常にわずかな確率を克服してこの世に登場してきたものなのだ。
 このような歴史上の「もし」は、いくらでも細分化して考えることが可能であり、そうなるとわれわれの知る「存在」というものが生じる確率は、もはや統計的にほとんど起こりそうもない、それこそ統計力学の領域で扱われるような数字になってくる。

 誰かが何度も成功しているからといって、必ずしもそこに理由があるとは限らない。それが存在をかけた争いであれ、あるいは単に株で儲けることであれ、それなりの数の人間が競い合う状況においては、成功することは合理的な理由を伴わない、単純な運不運の問題でありうる。』

おじちゃんが言うように『人生は運』だけです。ほかの要素は単なる本を売ったりするための方便でしかありません。いわく「幸運をつかむ風水」「幸運になる方法」「幸運を掴む生き方」。

すべて嘘です。どんな方法でも幸運なんてやってはきません。ただあるのは運のみです。
その運を呼び込むのは、その人のやり方考え方とそれらの本にはきっと書いてあるでしょう。とんでもない、人間はどんな人でもその人なりにみんな努力しています。

宝くじを買う行為も努力です。でも当たる人は一人です。『運しかないんです人生には』、ですから気楽に、運を天に任せて生きているのが一番ご気楽なんです。自分の能力以上の努力をすれば必ず、どこかでしっぺ返しが来ます。

能力以上の努力、つまり頑張らなくていいんです、人生は。気楽に、気楽に、運を天に任せましょう。