佃煮
佃煮の誕生
本能寺の変の時信長の命で堺を見物していた家康ですが、光秀が信長を討ったと言うことを聞いて、少ない家臣しか同行していない家康は慌てて三河へ戻ろうとしましたが、佃村の漁師たちに助けられました。その後、天下を取った家康はそれに感謝して佃村の漁師たちを江戸に迎え入れました。
家康と共に大坂から来た佃村の住人たちが、佃島に住み着き、将軍家に白魚を献上し、残った小魚を醤油で煮込んで保存食としたということが、佃煮の由来だと言われています。しかし、おじちゃんは佃煮のような保存食は、もっと以前からあったように考えています。
なぜなら、醤油は室町時代には醸造されていましたし、醤(ひしお)という大豆を塩とともに発酵させたものは、縄文時代にさかのぼって常用されていたそうですから、生ものの保存調味料として使われていたのは、かなり以前に遡れると思います。
現在の佃煮は、砂糖が大量に使われていますので、とても食べやすくなっていますが、冷蔵庫が普及しない以前の佃煮は、もっと塩っ辛いものだったそうです。野菜や魚介類は傷みやすいですから、長期に保存するのには、かなりの塩分が必要だったでしょう。当時の佃煮は梅干しと同じで安い食べ物の代表でしたが、現在ではどちらも高級な食べ物になってしまいました。
日本人の知恵は、相当昔から食料の貯蔵方法として、塩漬けだの、発酵だの、乾燥だの、佃煮だのとさまざまな手法が考え出されてきました。今では昔風の塩っ辛い佃煮は敬遠されるでしょうが、たかが佃煮と思いますが、それに至るまでには先人の知恵が詰まっているんですね。
流血好き。支那人のDNA=中華思想がそうさせる
「反日議員を落選させる会」より
支那人の不思議なところは、本国に住んでいても海外に住んで帰化までしていても頭の中が全然変わらない点です。
海外に住んでいれば色々な情報に接する事が出来るのに、その中からピックアップするのは支那政府が流す捏造された情報のようです。
゛中国系米国人゛が動員された様ですが、彼等に物事の良し悪しが区別出来るのか疑問に思います。
帰化した上に海外に住んでいても支那に異議を唱える事が出来ないくらい締め付けられているのか、それとも脳内構造が支那政府に対する疑問を持たないように出来ているのか、何かカルト宗教の信者でもあるかのようです。
「この嘘つきめ」「恥を知れ」「お前らの知ったことじゃない」「チベットの弾圧や虐殺は全部作り話だ」「歴史を知っているのか」「よそ者が口を出すな」
もう救いようがない感じです。
これらの発言内容は支那から一歩出た人間にはオカシイ事が簡単に分かると思うのですが、それさえも拒絶しているようです。
支那に反対する意見を何一つ認める気が無く、もう洗脳されているとしか言いようがありません。
アメリカ生まれのアメリカ育ちでも中身は何も変わらないようです。
普段の生活では表面に出て来ませんが、今回のような時に支那人の本性が出て来るようです。ある意味分かりやすい民族だとも言えると思います。
全世界から批判されていても゛何も見ない何も聞かない゛そのような態度を取っていますが、゛言う事だけ゛は忘れません。しかし、自分達の発言には一切責任を持たず言いっぱなしてす。
各国での支那人の対応を支那政府が指示(受け入れている)しているとすれば、それは大きな失敗に終わると思います。
支那人も論理的な思考は出来ないようです、朝鮮人と同じで。(腐ったものでも毒入りでも何でも食べるから中国人の脳みそは腐っているそうだ)
これこそ中華思想。死んでも自分の非は認めない。水に落ちた犬を打て。和を以って貴しと為す、の日本なら水に落ちている犬は助け上げるし、キリスト教の国でも同じだ。中国は共産主義、資本主義に拘わらず中華思想の考えは変わらない。事実中国の歴史2200年間この考え方は変わらない。
「東京その日その日」より
中華圏の歴史は易姓革命の歴史である。新しくできた政権は前政権の業績を全否定する。 極端にいえば、中華圏は一代限りのブツ切り文化だ。
中華圏からみれば、日本は「東夷」(野蛮人)である。黙っていれば朝鮮半島のように、中華圏に巻き込まれかねないと悟った日本は七世紀、中華圏からの離脱を図る。こういう判断をしたのは聖徳太子で、日本国の建国(六六八年)以来、中華圏との正式国交を絶つ。このおかげで、一八七一年に日清修好条規を結ぶまで、千二百年にわたって安泰を保ってきた。
この間、漢字に音訓をつけ、ひらがなを作って文字体系を確立した。政治、文化、伝統を積み上げて今のわれわれがある。七世紀の聖徳太子(しかも彼は政治家である)の評価が変わることなく、最近までお札に刷られていたのは中華圏では考えられないことだろう。ブツ切りの政治・文化ではなく、日本は「連続性」によって栄え、子孫は大きな恩恵を受けてきた。祖先に感謝するのは当たり前だ。その一体感があったからこそ、一気に国民国家を形成できたのである。
千二百年の泰平はペリーの黒船によって破られ、日本は再び大陸と関わりを持つようになる。以来、日清戦争、日露戦争、辛亥革命、五・四運動、満州事変と続いて大東亜戦争が終わる一九四五年までの七十四年間はまさに泥沼にはまり込んだような時代だった。福沢諭吉は一八八五年、時事新報に「脱亜論」を発表し、「中・韓と付き合えば身の破滅だ」と叫んだのである。
滝野川の由来
巣鴨の地蔵通りは今では婆さんだらけで混雑していて歩けないので、国道17号か大塚寄りの清和小学校の通りを通って、庚申塚へ出て再び旧中仙道を歩くと、人も車も少なく気持ちよく歩ける。
元来、おじちゃんは観光地や混雑しているところが大嫌いだから、こうした空いている道を見つけては散歩を楽しんでいる。
種村なにがしとか言う博学者が書いた本だったと思うが、「東京探訪」だったかな、そんな名前の本に東京は崖地が多く巣鴨から王子にかけてはあちこちに滝があったようだ。それでこの辺りを「滝野川」と呼んだ、と出ていたようなそんなことからついた名前らしい。
東京は今でも坂が多いので有名だ。そもそも山の手と下町の分け方は、崖地の上と下を語ったものだ。明治の終わりころまでの東京は、崖と谷と川の多い場所だったのだ。だから街の名前にも、だいぶ変えられてしまったが、それでも四谷、谷中、上野、品川、新橋、板橋など地形に因んだ名前が多い。
広大な敷地の亀の子たわし会社
散歩に戻ろう。旧中仙道を明治通りから少し入ったところに、かなり広い敷地の場所がある。誰でも知っているあの「亀の子たわし」の会社だ。最近までおじちゃんも、こんなところにあるとは気づかなかった。今でも立派に営業を続けている。
この旧道をまッつぐ行くと板橋の駅に出る。踏み切りの手前の信号を左に曲がると、近藤勇の墓がすぐにある。
この先日本は
仙台
岩手 一関
最近は地方に行っても、地方色などというものは全く失われてしまい、東京と、どこも変わらない風景になってしまっている。折角の地方の文化をしっかりと守って欲しい、と思ってみてもはじまらないだろう。第一かく云う東京自体がその姿を日々変容し続けている。
嘆いていたところで、なんの解決にもならないし、時代錯誤と言われてしまうかもしれないが、そう揶揄する者たちによって地方も東京も、破壊され続けてゆく。
古くは「日本列島改造」など、と大ナタを振るい自己の利益のために地価をべらぼうに高騰させた田中角栄。そしてすさんだ格差社会と、日本人から夢を奪ってしまった小泉純一郎。どちらもヤクザの血を引いた大悪人だ。更にとどめを刺した朝鮮人政党の"民主党"によって日本はとことん痛めつけられてしまった。
しかし、不思議とジャーナリストたちはこいつらを礼讃する。日本のマスコミジャーナリズムが腐敗し臨終している証拠だ。その点ネットはまだ個人の自由な意見が述べられる唯一の手段として生きている。しかし少数の不心得者のネットでの言動が、全ての自由な意見を検閲などという手段で封殺する恐れは常に含んでいる。
まずヤフーの質問コーナー「ヤフー知恵袋」に北朝鮮のことを書いたら削除された。ヤフーのトップ朝鮮人の孫正義をおもんばかっている人物がこのコーナーを仕切っているからだろう。「ぐるなび」にはお店の悪口は一言も書けない。それらは全て削除だ。これは「ぐるなび」が掲載店から毎月最低6万円以上の金銭を受け取って運営している不正行為にある。どちらも読者を欺くセコイ商売のやり方だ。
無教養で不道徳で腐りきった、こうしたマスコミの溢れかえる多くの「ヤラセ」情報からは、あまり得るものがなくなっている。溢れカエル情報の中から、真実を見出す人間もまた減少している。価格コムやぐるなび、ヤフーなどのネット情報は便利なようでスカを掴んでいる可能性が多いのだ。
支那からの移民を大量に移住させる公明党主導の移民政策。安倍さんも小選挙区での公明党との共闘で当選してくる自民党議員がいるので、むげにも共闘を断れない事情があるだろうが、政教分離に違反している政党など一日も早く破断させるべきだ。いつか日本中がこんな「支那の走狗」だらけにならないことを危惧する。
クサフジの花
国立に住んでいた時、散歩の途中できれいに咲き誇っている花に出会いました。マメ科の花のようですが、おじちゃんは初めて見る花なので名前を知りません。
カラスノエンドウとも似ていますが、花のつき方が違います。一房にたくさん付いていて、まるで藤のようです。かみさんに何という花かな、と聞くと藤によく似ているので、確か『クサフジ』とか言ったかしら、とあいまいな答えでしたが、帰って調べてみると確かにそれに間違いないようです。
今までは、野に咲く花などにあまり関心がありませんでしたが、散歩をしていると珍しい花、見たことない花に出くわします。そんな中で少し関心を持つようになりました。もともと勉強嫌いな癖に、好奇心が強いほうですのでいろいろ出くわす中で少しづつ調べるようになりました。
これは単に好奇心のなせる業だけではないようです。かの有名な写真家だった秋山庄太郎氏も若い時は、女性やヌードばかり撮っていましたが、熟年になってからは花ばかり撮るようになりました。やはり男としての色気がなくなり、興味がほかに向いたのでしょう。いくら美味しくても年がら年中そんなものばかり食べていると飽きてしまうのと一体です。ましてや仕事ですから嫌々だったのかも知れません。
おじちゃんも、年々細胞から男が抜けていっていますから、色気はもう卒業しつつあります。まあそれはさておき、本当に野原にも色々な花があって案外と飽きないものです。
割れ窓現象の怖さ 日本人のマナー低下
日曜日の夜の電車の中はひどい光景が展開されています。真正面に座った若いカップルは座るが早いか、衆目の前でほお擦りを始めました。その列の端っこのカップルも手をつないだままベタベタとしています。少し離れた席の、やはり若い男はさっきからずっと携帯電話を使い大声で話しています。
おじちゃんはこういう輩には我慢ならず、今までは10人ほどで、こともあろうに車内でタバコを吸いだした高校生を怒鳴りつけ、その場ですぐタバコを消させた事があります。携帯で話しているヤクザとも何度もやりあった事もあります。海外でも酔っ払って飛行機内で歌いだした、でかいアメリカ人グループを怒鳴りつけたこともありました。バカなんですねー、そんな時は危険をも顧みなくなっちゃうんです。そんなことを数えだしたらきりがないくらいです。
ですが最近はかみさんに止められます。胸の手術をしてからは確かに体力が衰えてきています。万一どつかれでもして傷口が開いてしまったりしたらと心配してのことです。
電車内で大声で電話している若いやつを見過ごすのは、なんとも不愉快ですが、かみさんの心配ももっともですし、おじちゃんも寄る年波と体力の低下で、いくらか丸くなってしまいました。
漱石の「坊ちゃん」とよく似た気短かの江戸っ子で正義感が人一倍強い気質ですから、いつも損をしています、このところこんなのを見過ごすようになってしまったのかと、すこしがっかりしています。少し前なら絶対許さなかったですが。
自分たちで隣の車両に移りました。でもその車両でもべたべたのカップルがたくさんいました。こういうのはホントに見苦しいですが、注意する気にはなりません。こちらが見なければと最近はあきらめています。電車やバス内やレストランで子供が騒いでいても怒りもしない母親たち、大きな乳母車を電車
内の通路のど真ん中に平気で止める若い母親。優先席に堂々と居座る若いやつ。もう数えたらきりがありません。
上野 不忍池
上野でいつも賑わっているのは、アメ横ともうひとつが、不忍池です。春夏秋冬いつでも賑わいを見せています。
かっては今の倍近い広さがあったそうですが、今ではご覧の広さになっています。
以前は西ヶ原の方から流れ込んでいた、愛染川という色っぽい名前の川があり、漱石の『三四郎』の中にも、ヒロインの美禰子が、三四郎に何か謎のような言葉「迷える子羊」(ストレイシープ)と言って、田舎出の三四郎の頭の中を翻弄する場面がありますが、この川の畔だったのでしょう。
いまでも川が流れていた駒込には、「霜降り橋」という地名もありますし、根津にも「愛染橋」という交差点が残っています。
この不忍池の真ん中には、弁天様を祀った弁天堂が突き出しています。愛染川と言い、弁天様と言い、不忍池はなんか色っぽいのが似合うのでしょうかね。
本郷もかねやすまでは
江戸時代の地図を広げると、現在の東京大学から北の方は、畑地とか百姓地になっていて、家は中山道に沿ってわずかに点在する程度です。
『本郷もかねやすまでは江戸の内』という川柳の通り、本郷三丁目から北は江戸御府内ではなかったのです。現在の東大の前あたりの旧森川町も淋しくて、辻斬りがよく出たそうです。
明治の初期の地図でも、江戸時代とそれほど変わりなく、江戸の範囲は狭かったのですね。
交通手段が徒歩がメインですから、感覚的にはそれでも広かったのでしょうが、江戸の初期には百万都市として、現在でいう政令都市として、江戸の町は世界一の人口をかかえていたのです。
交通手段があまり無い、江戸時代の人たちの健脚ぶりはすごいものです。江戸詰めの紀州の御家人(下級武士)の江戸滞在日記には、江戸城の藩邸から、向島まで花を見に行った翌日は、飛鳥山まで往復し、次の日もやはり40キロ以上歩いています。これが普通だったのですね。
川柳と寺子屋
落語の中には川柳や都々逸がよく登場します。川柳は好きですが、江戸川柳はかなりの教養がないと理解できない事があります。例えば
『五十字に足りず万事の用に足り』
これは弘法大師が創ったと言われる「いろは」を詠んだものです。
『弘法は裏 親鸞は表門』
これなどトンと見当がつきませんが、女人禁制を厳しくした空海と妻帯を認めた親鸞を考えれば謎が解けます。
江戸時代にはイケメンの代表と考えられていた、平安貴族で六歌仙のひとり在原業平(ありわらのなりひら)ですが川柳になると、
『井戸端で こしゃくな子供 口説き初め』
これは業平の次の和歌を知らなければ理解できません。かなり小さい時分に初恋の相手に詠んだ歌ですが、
『筒井筒 井筒にかけしまろが丈 過ぎにけらしな 妹見ざる間に』
それに対する幼い紀有常の娘の返歌が
『比べこし 振り分け髪も 肩過ぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき』
そして先日書いた西行の入寂を
『如月のその望月に西へ行き』と詠んだのも
「願わくば 花(桜)の下にて春死なん その如月の望月の頃」を知らないとなーんだとなってしまいます。
しかし以下のものはそうした知識が無くても結構判りやすいものです。
『形見分け もらう気で 下女やたら泣き』
『仲人は 小姑一人殺すなり』
『琴になり下駄に為るのも桐の運』
『里帰り 夫びいきにもう話し』
『上っても峠を知らぬ欲の道』
江戸の庶民はかなりの教養を供えていたようです。川柳のほかにも、判じ絵なども諸事に通じていなければ、さっぱり分かりません。それは江戸時代には、全国に普及していた寺子屋のおかげでしょう。読み書きそろばん、その他必要な教育を、このシステムが江戸っ子たちに具備させた事実は素晴らしいものがあります。
神社仏閣に残る江戸時代の絵馬には、現代の数学者でも舌を巻く「算学」の問題などが奉納してあると云うから寺子屋恐るべしです。問題山積の現代の教育制度も寺子屋を見習った、もっと実践的なものに変えたらどうだろうか、と思います。
小石川植物園
八代将軍吉宗の時代、庶民の救済のために作られた小石川養生所が、ここの前身です。薬草園があったことでも知られています。その後、明治になると東京大学農学部の実験農場となり、現在の形になりました。今でも東大の施設は、隣接しています。
ここは、よく日曜画家たちが、スケッチに来ています。春夏秋冬、それぞれの季節用の樹木が植えられていて、一年中観察できるし、都会の喧騒を離れて、ホッとした時間を過ごす事が出来るんです。
ここの池には、ウシガエルがたくさんいて、春になると大きな10センチほどもあるお玉じゃくしで、池が真っ黒になります。そして春には、一面に梅の花が咲き、芳しい香りをあたり一面に漂わせます。その後は桜が、ソメイヨシノからはじまり、八重桜まで一と月以上も楽しめます。
こうして数百年先の子孫のためにも、大いに役立つものを残した将軍に比べて、小泉や旧民主党更に外務省や法務省の役人たちなどの反日外国人たちは、日本が誇る郵政や社会保険や健康保険の制度を根本から全てぶち壊して反日外国人のためのものにしてしまい、これからの若い人がより住みづらい世の中にしてしまったのは、なんかこのーとても腹の立つことです。せめて数百年先もお玉じゃくしや梅の花や桜は、毎年私たちの子孫を楽しませていただきたいものですね。
八百屋お七の墓
八百屋お七の噺しは巷間語り継がれているけれど、お七が寺小姓に恋焦がれて自宅に火をかけたかどうかは、定かではないそうです。
西鶴が「好色五人女」の中で書いているようなことは、読み物としてかなり脚色してあるでしょうから、事実がそうだったかは甚だ疑問視する意見もあるようです。
事実はどうあれ、そんな事件があったことは当時の資料から明らかのようですし、大坂の西鶴が戯曲にするほど周知の事件だったのでしょうから"恋焦がれて"火付けをして火あぶりの刑に処せられたということにしておいた方が、より哀れを誘いお七さんの供養にもなるのかもしれません。
本郷森川町の商人八百屋市兵衛は、もと駿河国富士郡の農民であったが、今は八百屋を業として裕福に暮らしていた。男子二人のほかに、今年十六で末っ子のお七は、容姿、性格ともに優れて夫婦はことのほか溺愛した。
天和二年十二月二十八日、駒込大円寺より出火した大火で、一家は檀那寺の正仙院に避難した。
この寺には寺小姓の生田庄之助なる十七になる美少年が居た。
庄之助はひと目でお七に恋慕し、文を渡すなどすると、お七も庄之助のことを憎からず想い、人目を避けながらも正月の松の内が明ける間もなく、深い契りを結ぶ仲になった。
その後、家に戻ったお七だったが、庄之助の事が忘れられず、文など送り、隠れては逢瀬を続けた。が、親の目もあり二人が思うようには会うことも出来ず、お七はいつもじれったく感じ始めていた。
そんな折、また火事があれば庄之助の居る寺に泊まる事が出来る、とはかない女心で考えたお七は三月二日の夜、近所に放火したが、たちまち見つかり未遂に終わった。お七は捕らえられ奉行所に引き立てられた。
三月十八日から十日の間、江戸市中を引き回され、二十八日鈴ケ森にて火刑に処せられた。
お七の処刑から三年後の1686年(貞享三年)井原西鶴が「好色五人女」の中で、寺小姓の名を十六歳になる浪人小野川吉三郎と名付けたことからお七の相手が吉三という具合に伝わった。
橋本勝三郎は「江戸の百女事典」の中で、「実説の吉三郎は、吉祥寺門前に住むならず者で、お七を騙して金品を巻き上げた上、付け火をそそのかし火事場泥棒する悪党であった」と書いている。これは矢田挿雲著の「江戸から東京へ」での八百屋お七の編に出てくる吉三をパクっただけで、何の考証もしていない。
そもそも、吉三郎なるものが実在したかどうか上方の西鶴の草子に使われた名前であって架空のものでしかない。しかも「江戸から東京へ」は報知新聞に大正年間(9年~12年)に読み物として連載されたもので、江戸時代の黄表紙などのように娯楽性が強く、読み物としては大変面白いが史実に基づいたものではなく、かなりの脚色、誇張が多い。
それでは一体、吉三とは実在したのか、もし実在したのならどんな人物がモデルだったのだろう。「武江年表」には「三月二十九日駒込片町八百屋久兵衛の娘お七火刑に行はる其の顛末世人の知る所なり」とあり、詳細は書いていない。「世人の知る所」とあるから、当時としては世間に知れ渡った事件だったに違いない。この頃の記録はないが江戸の刑罰史には四年の間に火刑はわずか10人と記されている。お七の処刑は、その時代相当の評判になったのは想像に難くない。
しかし、それ以上お七の事件は、明らかな文書もなく研究書もないので、なぜ放火したのか、本当に恋狂いが原因だったのか。その詳細さえ判然としない。いくら箱入り娘のお七でも恋した相手に逢いたいだけで死刑覚悟の放火などするだろうか。もっともお七の知能指数がそれほどのものだったら仕方ないが、「世人の知る所」とあるくらいだから、恐らく西鶴もある程度事実に基づいて著作したと思われる。ただ脚色された物語が、歌舞伎や浄瑠璃、歌祭文などで現在に伝えられ、事実として喧伝されているのは否めない。
やはり誰かに懸想して、それ故火付けの罪を犯したのだろうか。そう考えたほうが確かにロマンがあり、お七に哀切の情を感じるのは間違いない。
従って現在まで、吉三が実在したのか、実在したとしたら誰だったのかは残念ながら判別できない。八百屋お七の事件は調べれば調べるほど謎が大きく膨らんでくる。
日本で一番日本でない場所
地下鉄に乗り麻布十番で降りて商店街を歩き始めると、正面に巨大なビル群が迫ってきます。六本木ヒルズのビル群です。今まで何も無かった所がまるで違った空間になってしまうのは、狐にだまされたようで、なんかこのー変な感じです。
米軍基地以外で、これほど日本を感じさせない場所はおそらく国内には無いでしょう。歩いている人の半分近くが外国人ですし、空間も日本とは程遠い感覚のものです。おじちゃん的にはすごく居心地のよろしくない場所です。まだ新しいですからキレイですが、まるで占領地のようです。
このビル群が出来て、まるで人の動きが変わりました。麻布十番はひっそりとした寂れた場所でしたが、今ではすごい繁華な町に変わりました。
東京はいいか悪いかは別として日々変貌してゆきます。ついてゆけない場所や人は容赦なくどんどんと置いてけぼりをくわされます。おじちゃんは先祖代々東京生まれの東京育ちですので、普段は感じない東京の変貌も、このように大規模な変貌だと、ひょっとそんなことを考えてしまいます。