春日燈籠、街の早起き

f:id:mitokioquerido:20180402191742j:plain

 

f:id:mitokioquerido:20180402192051j:plain


奈良の名物として、『大仏に鹿の巻き筆、奈良ざらし、春日燈籠、街の早起き』というくだりが出てきますが、街の早起きとは、けして良い意味で謂われているのではなく、奈良の鹿は古来より神鹿と呼ばれ春日大社の神の使いとして崇められていました。その鹿が自宅の前で死んでいると、その家の者たちは悪くすると石子詰めという死罪にされたりしました。

そこで自然に街の人たちが早く起きて、自宅の前に鹿が死んで居ないかを確かめるようになったという、言い伝えがあります。確か興福寺の境内のどこかに、実際にその刑に処された三作という少年の「石子詰三作の墓」という碑があったように記憶しています。

 

猿沢池の北東にある五十二段の石段を上がって右に少し行くと、右側に興福寺の菩提院大御堂がある。奈良町の人達はここを十三鐘と親しみをこめて呼ぶ。昔はここに梵鐘があり、朝七つ時と暮れの六つ時に時刻を報じたからだという。現在は興福寺の管長様のお住居になっているので、勝手に出入りすることはできないが、以前は団体客を案内するガイドや人力車が必ず入って説明した、奈良名所の一つであった。というのは、この庭内に「三作石子詰め」の跡といわれるものがあったからである。江戸時代頃まで、春日の神鹿を殺すとその罰として生きたまま石子詰めにされるという掟があったそうだ。江戸時代、ここが寺子屋になっていたことがあって、手習いをしていた三作がちょっと目を離した隙に鹿が手習いの草子をくわえて逃げ出した。草子をとり返そうとして三作が投げた文鎮が鹿の急所に当たって死んでしまったので、三作は「石子詰め」にされたという。子供を思う母親がその霊を弔うために墓に植えたという紅葉の木も残っていた。

 

f:id:mitokioquerido:20180402192121j:plain