近藤勇の墓

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明治になって新撰組生き残りの永倉新八翁が建てた近藤勇の墓ですが、遺体はこの場所にはありません。薩長の軍勢に出頭し、運悪くこの場所で斬首の刑に処せられたということで、墓となっています。

剣術道場「試衛館」時代には、「お前、俺」の仲だった近藤と永倉ですが、近藤が局長という重責についてからは、永倉とのそりが狂いだし、薩長の新政府軍に追われて会津に落ちる際にはとうとう袂を分かちあう仲になり、千葉県の流山に陣をひいた近藤は薩長軍に尋問され、土方の反対を押し切って出頭し、そのまま板橋まで連れて行かれました。運悪く、京都守護職新撰組時代を知る敵兵に顔を見られ即刻斬首刑にされてしまいました。

一方、永倉は、靖兵隊を結成し、北関東にて新政府軍と抗戦し、北へと敗走して行きました。米沢藩滞留中に会津藩の降伏を知って江戸へ帰還し、その後、松前藩士として帰参が認められ大正まで長寿を全うしました。「一に永倉、二に沖田、三に斎藤」と言われた剣の腕前でしたが、最早、刀の時代は過ぎ、鉄砲の時代では、いかな剣客といえども時代の波には抗えきれませんでした。

この墓は明治9年に永倉が「近藤と土方は若くして死んでしまったが自分は命永らえた」と若き日の新撰組の思い出と顕彰のために、この碑を建てたということです。

土方は近藤の死を聞いてから、新撰組の生き残りの島田魁ら数名の隊士と幕府の榎本武揚とともに函館へ渡り、薩長軍との最後の戦いでは土方率いる隊は全戦全勝していましたが、 薩長軍の箱館総攻撃が開始され、島田魁らが守備していた弁天台場が敵軍に包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣。薩長軍の軍艦「朝陽」が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「この機会を逃すな!」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、「我この柵にありて、退く者を斬る!」と発した。歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る薩長軍に応戦。鬼のように戦い、馬上で指揮を執った。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたという。(黄色ウィキペディアより引用)

奇しくも近藤勇と同じ年齢の35歳の春でした。

幕末の激動の時代を、剣一筋に生きてきた剣豪たちの生き様の顕彰碑に胸が熱くなる思いがします。

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