彰義隊の墓

 

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長州や土佐などのテロ集団が跋扈している京都を守護するために幕府は、会津藩に「京都守護職」を命じ、その一部を新撰組が受け持ちました。しかし慶応4年1月、それまで幕府側についていた薩摩が、幕府を裏切り長州と組み、その薩長軍によって鳥羽・伏見の戦いが始まりました。京都に滞在していた将軍慶喜は闇に乗じて、部下たちを置いて密かに江戸へ逃げ帰りました。


それでも忠実な幕臣たちは慶応4年5月(1868年)「大義を彰(あきら)かにする」という意味の彰義隊と命名した組織を立ち上げました。薩摩藩のスパイとして働いていた勝海舟は、武力衝突を懸念し彰義隊の解散を促したが、江戸に進軍してきた薩長軍と一戦交えようと各地から脱藩兵が参加し最盛期には3000~4000人規模に膨れ上がりました。

徳川慶喜の警護役をしていた、これも実は反幕勢力の一人だった幕臣山岡鉄舟を、幕府の正当性を支持していたもう一人の天皇である輪王寺宮の側近・覚王院義観と会談させ彰義隊への解散勧告を行いましたが、覚王院義観は鉄舟を裏切り者と呼び説得に応じませんでした。

そして、いよいよ江戸の街に薩長軍が侵入してきて彰義隊とぶつかりました。雨の降りしきる5月15日の早朝、戦端が切られました。長州の冷徹無情な大村益次郎が軍勢を率いてありとあらゆる武器弾薬を雨の中撃ちまくりました。本郷台の高台から4キロも届く最新式のアームストロング砲の砲弾を上野の山に撃ち込みました。刀が主力の彰義隊は、僅か一日で敗走せざるを得ませんでした。

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この戦いの最中、西郷隆盛は大村に向かって「オイは皆殺しにするつもりか」というほど凄惨で容赦ない攻撃でした。皆殺しを指示した大村は数百の死体を片付けることも葬ることも許さず、むせ返る暑さの中1週間以上そのままにさせました。それを見かねた徳川家の菩提寺であった増上寺や縁故者等が引き取りを申し出ましたが、薩長はこれを容れず、南千住の円通寺の二十三世仏麿和尚と、寛永寺の御用商人であった三河屋幸三郎や侠客の新門辰五郎たちがこれを見兼ね、戦死者を上野で荼毘に付したうえ、官許を得て遺骨を円通寺に埋葬しました。円通寺には近親者などが墓碑を相次ぎ建立、上野では1869年(明治2年)、寛永寺子院の寒末松院と護国院の住職が密かに「彰義隊戦死之墓」と刻んだ墓碑を地中に埋めましたが、表立って彰義隊を供養することは憚られる状況が続きました。

薩長軍は、戊辰戦争会津でも2500人の死骸の埋葬を許さず、死骸からは死臭がしウジがわいていたということです。まさに江戸っ子や東北の人間のやる行為ではありません。鬼畜薩長許すまじです。特に長州藩の非人道ぶりは蝦夷地までも続きました。

戊辰戦争終結の地函館での戦闘では、榎本武揚率いる幕府軍は敵である薩長軍の負傷兵を自ら作った病院で治療まで施しました。正にサムライ精神からです。それに引き換え薩長軍の非人道的な死骸の扱いは、日本人としてあるまじき行為です。これは後世の今の世でも糾弾すべきことです。

武士の生き様を最後まで貫き通した幕府のサムライや彰義隊士たちの心意気を、死体を放置することで汚した薩長軍のやり方、このお墓にお参りすると、志を汚されたもののふ達の嘆きが聞こえるような気がします。

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