唐人お吉と下田

 

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お吉がわずかの間やっていた小料理屋   しかし、すぐに閑古鳥が鳴き店は閉店しました

 

以前賑わっていた下田は、嘘のようにひっそりとしていました。確かにおじちゃんも、伊豆はサービスが悪くて、食べ物が悪すぎたので、何十年も敬遠していました。

しかし、最近は少し変わってはきたようですが、実情は、よくは分かりません。人が少ないところから推測すると、やはりあまり変わっていないのかもしれません。

とにかく海と景色が、きれいなのと、温泉という恵まれた環境ゆえ、観光業者が、殿様商売をしていたのは、間違いありません。それに、全てがびっくりするような値段だったからです。

 

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下田の全盛期名残のある柳橋界隈の花街

 

話は変わりますが、下田の観光名所の目玉は、やはり「唐人お吉」さんでしょう。今でも観光の目玉になっていますが、生前はこんな哀れな生涯を送った人も少ないでしょう。

 

ペリー来航のあと、領事として、日本にやってきたハリスの身の回りの手伝いに上がった、当時下田でナンバーワンの芸妓だったお吉でしたが、実態はお妾でした。お金のためと、甘言により渋々妾になったお吉でしたが、何があったか、ハリスさん、お吉が気に入らずに、わずか三日で暇を出されました。

しかし、一旦外人の妾になった女性への風当たりは、当時の日本では、すさまじかったのです。支度金としてもらったお金で、「安直桜」なる小料理屋を始めたのもつかの間、狭い下田の町です、わずか一年足らずで客足が絶え、お吉は芸妓をはじめとして色々な仕事に尽きますが、何処へ行っても、バカにされいじめ抜かれたそうです。

とうとう下田を去り、横浜へ移りましたが、そこでも「唐人お吉」と分かると、蔑(さげす)みといじめの嵐です。

そんな情況におかれたお吉は、だんだんと酒の量が増えて、お酒におぼれていきました。仕事もできなくなり、下田に戻ってからは、乞食のような生活をしていたそうです。そしてある晩、下田港近くの川に、酔って踏み外したのか、覚悟の投身自殺だったのか、定かではないのですが、四十八歳のいじめ抜かれて、やつれ果てた生涯を閉じました。

こんな話を思い出すのも、伊豆を感傷旅行の場所にしてしまうのかもしれません。

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