ふたたびの新撰組

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京都 壬生寺にある近藤勇銅像


金儲けだけが目的の坂本竜馬が、長州に薩摩を介して、イギリスの武器商人グラバー(長崎のグラバー邸で有名)から、最新式の大砲やら鉄砲やらを、大量に仲介して大金をつかみ、長州との宥和を取り持ち、幕府を倒す結果につながりました。

そして、さんざん攘夷(外国人を排斥する)、攘夷と言っていた長州でしたが、途中、長州とは犬猿の仲だった薩摩が、幕府を裏切り長州と手を結び、薩長軍として幕府側に、刃を向いたときあたりから、形勢が変わってきました。

幕府寄りだった諸藩も、最新式の武器を備えた、薩長の軍事力の強さに、次々と変節し、薩長軍に与してゆきました。新撰組にとって、京都での最後の戦いであった、鳥羽伏見の戦闘では、この武力の凄まじさが炸裂しましたが、幕府軍にも、フランスがついていましたので、徳川慶喜がいる大阪城に、1万5千の幕府軍が結集すれば、5千しかいない薩長軍に、十分対抗できる余力があったはずです。

しかし、想像も出来ないことが起こりました。なんと、総大将である慶喜が、突然、変装をして部下を置いて、大阪城から船で、江戸へ逃げ帰ってしまいました。沈没した韓国のセウォル号の船長のようにです。こんな将軍は、前代未聞です。これでは家臣の士気も、しぼんでしまいます。これを契機に、幕府軍の総崩れの戦いが始まりました。

明治になり、新政府を作った薩長ですが、あれほど攘夷といって外国を嫌っていたのに、まるで猿真似のように、洋服に身を包み、西洋の社交場の物まねの、鹿鳴館を作り、すっかり外国かぶれとなって行きます。

尊王攘夷と、言っていた薩長の連中は、天皇を利用して、自分達が、権力の中心に、座りたかっただけでした。その証拠に、下級武士だったり、使用人だったりしていた者たちが、明治になって伯爵だの、子爵だのと爵位を、私にしています。

 

「勝ち馬に乗る」、日本人として、最も忌み嫌う言葉です。世の中は、打算だけを考えれば、その方が得かもしれませんが、人間としての誇りは、微塵も感じられません。裏切った薩摩や、外国かぶれになった長州や、部下を置いて、さっさと逃げ去った慶喜と比べ、負けるのが分かっていても、変節や裏切りなどしない新撰組の潔さ、これこそ日本人の鑑だと思います。真の日本人の、新撰組の生き様は、現代の日本人にとっても、とても重要な指針になると思います。