芭蕉の深川

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いまさら「奥の細道」の解説をしてもしょうがないほど、日本人には人気のあるものです。
この日も見るべきものもない"芭蕉記念館"には年寄りばかりがたくさんいました。近頃は何処へ行っても、年寄り、特に女性の婆さん連中の多いこと。家にいるのが嫌いなんですかねー。最悪なのは"加齢臭"をプンプン発散させている年寄りはこういうところに来ないでもらいたいです。毎晩風呂に入ればこんな悪臭はしませんよ。

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この辺には、芭蕉が住んでいたということで、いろいろ因んだ場所があります。彩荼庵(さいとあん)もその代表的なひとつですが、当り前のように庵は影も形もありませんが、この辺りだろうということで芭蕉銅像がありました。

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芭蕉は門人、杉山杉風(さんぷう)の別宅であった彩荼庵(さいとあん)から奥の細道旅に旅立ちました。45歳と云う、当時としては死をも覚悟するほどの年を取っての危険な長旅です。それまで住んでいた隅田川小名木川の合流地点の岸辺にあった芭蕉庵を引き払い、(草の戸も 住み替はる代(よ)ぞ 雛の家)パトロンである門人、杉山杉風(さんぷう)の持ち物である近くの採荼庵に移りました。杉風は、日本橋で幕府御用の大きな魚問屋、有り余る経済力で芭蕉の生活の面倒を見ています。
御庭番の忍者説が絶えない芭蕉ですが、これだけ才覚があり、しかも伊賀の出となるとそう思いたくなるのも不思議ではありません。藤堂家の家臣でしたから三重津藩の藤堂家のための情報なのか、幕府側の隠密なのか定かではありませんが、そんな噂もあったりします。

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それはともかく「俳聖」と呼ばれるほどの才能は、深川で詠んだ『古池や かわず飛び込む 水の音』の一句を見ても天才的なものが出ています。芭蕉の句は全てが本当に天才的です。

深川は芭蕉に関する史跡が多く残っていました。