旧中仙道

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古い木造の商店が建っている


お天気のいい昼下がり、巣鴨駅から板橋駅までの旧中仙道を歩きました。地蔵通りはごった返す混雑ぶりです。よくもこれほど、人が集まるものだと思うほど、溢れかえっていました。おじちゃんは、全くこういう場所には興味がないので、素通りして行きます。

庚申塚のある所までは、人の波が続きました。都電の庚申塚の踏切を渡ると、嘘のように人の気配が消えてゆきます。全く別世界です。静かな旧中仙道が続きます。やがて大正大学が近づくと、写真にあるような、旧い木造の家が取り残されたように数件存在しています。とても雰囲気があります。なにか東京とは思えない、地方都市の、どこかへ来たような錯覚に陥ります。

大正大学を右に見ると、大きな明治通りに出ます。まっすぐ行くと埼京線の踏切があり、渡りきると、その左手が板橋駅西口です。車の通行を避けて、一本左の脇道を進みます。静かな住宅街が続き、途中でどこか左へ入り、また進むと板橋駅の東口に出ます。ここに新撰組の局長だった近藤勇が、処刑された場所があり、後年、新撰組の生き残り永倉新八翁によって建立された墓所があります。いつ行っても、墓前には花が手向けられています。ジメッとした場所なので、志半ばで処刑された、忠臣近藤勇の霊気が感じられて、なんともいえない気持ちになります。

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新撰組ですが、幕末に長州の討幕武士たちが、毎晩「天誅天誅」といって人殺しをして暴れまわり、治安が悪くて京都の町が殺伐としたので、幕府はそれを鎮圧するために「京都守護職」として、会津藩をその役に当てました。その下部組織として結成させられたのが後の「新撰組」です。集められたのは、江戸に散らばっていた各地の脱藩浪人たちでした。250人ばかりが茗荷谷の「伝通院」に集まりました。当時「試衛館」という剣術道場の道場主の近藤勇と弟子たち8人も、その中に居ました。そして文久3年(1863年)2月27日、ここ中仙道を通って京都に上りました。

新撰組より2年ほど前、文久元年(1861年)の秋"公武合体"で徳川14代家茂に嫁いだ皇女和宮も、京都からこの道を通りました。当時、この沿道に住んでいた人たちも、3万人50kmとも言われている和宮のえらく長い行列を、朝から日暮れまで眺めていたことでしょう。中仙道は海や川を渡る必要がなかったので、主に女性の利用に便利だったようです。和宮の降嫁からか「姫街道」と呼ばれています。

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江戸五街道のひとつ中仙道第一番目の宿場、板橋宿はここから始まりますが、ここで旧中仙道の散歩は終わりです。わずか1時間ほどの距離ですが、歩数計は8000歩を超えていました。