八百屋お七の墓

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八百屋お七の噺しは巷間語り継がれているけれど、お七が寺小姓に恋焦がれて自宅に火をかけたかどうかは、定かではないそうです。

西鶴が「好色五人女」の中で書いているようなことは、読み物としてかなり脚色してあるでしょうから、事実がそうだったかは甚だ疑問視する意見もあるようです。

 

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事実はどうあれ、そんな事件があったことは当時の資料から明らかのようですし、大坂の西鶴が戯曲にするほど周知の事件だったのでしょうから"恋焦がれて"火付けをして火あぶりの刑に処せられたということにしておいた方が、より哀れを誘いお七さんの供養にもなるのかもしれません。

 

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本郷森川町の商人八百屋市兵衛は、もと駿河国富士郡の農民であったが、今は八百屋を業として裕福に暮らしていた。男子二人のほかに、今年十六で末っ子のお七は、容姿、性格ともに優れて夫婦はことのほか溺愛した。
天和二年十二月二十八日、駒込大円寺より出火した大火で、一家は檀那寺の正仙院に避難した。

この寺には寺小姓の生田庄之助なる十七になる美少年が居た。
庄之助はひと目でお七に恋慕し、文を渡すなどすると、お七も庄之助のことを憎からず想い、人目を避けながらも正月の松の内が明ける間もなく、深い契りを結ぶ仲になった。

その後、家に戻ったお七だったが、庄之助の事が忘れられず、文など送り、隠れては逢瀬を続けた。が、親の目もあり二人が思うようには会うことも出来ず、お七はいつもじれったく感じ始めていた。

そんな折、また火事があれば庄之助の居る寺に泊まる事が出来る、とはかない女心で考えたお七は三月二日の夜、近所に放火したが、たちまち見つかり未遂に終わった。お七は捕らえられ奉行所に引き立てられた。
三月十八日から十日の間、江戸市中を引き回され、二十八日鈴ケ森にて火刑に処せられた。

お七の処刑から三年後の1686年(貞享三年)井原西鶴が「好色五人女」の中で、寺小姓の名を十六歳になる浪人小野川吉三郎と名付けたことからお七の相手が吉三という具合に伝わった。

橋本勝三郎は「江戸の百女事典」の中で、「実説の吉三郎は、吉祥寺門前に住むならず者で、お七を騙して金品を巻き上げた上、付け火をそそのかし火事場泥棒する悪党であった」と書いている。これは矢田挿雲著の「江戸から東京へ」での八百屋お七の編に出てくる吉三をパクっただけで、何の考証もしていない。

そもそも、吉三郎なるものが実在したかどうか上方の西鶴の草子に使われた名前であって架空のものでしかない。しかも「江戸から東京へ」は報知新聞に大正年間(9年~12年)に読み物として連載されたもので、江戸時代の黄表紙などのように娯楽性が強く、読み物としては大変面白いが史実に基づいたものではなく、かなりの脚色、誇張が多い。

それでは一体、吉三とは実在したのか、もし実在したのならどんな人物がモデルだったのだろう。「武江年表」には「三月二十九日駒込片町八百屋久兵衛の娘お七火刑に行はる其の顛末世人の知る所なり」とあり、詳細は書いていない。「世人の知る所」とあるから、当時としては世間に知れ渡った事件だったに違いない。この頃の記録はないが江戸の刑罰史には四年の間に火刑はわずか10人と記されている。お七の処刑は、その時代相当の評判になったのは想像に難くない。
しかし、それ以上お七の事件は、明らかな文書もなく研究書もないので、なぜ放火したのか、本当に恋狂いが原因だったのか。その詳細さえ判然としない。いくら箱入り娘のお七でも恋した相手に逢いたいだけで死刑覚悟の放火などするだろうか。もっともお七の知能指数がそれほどのものだったら仕方ないが、「世人の知る所」とあるくらいだから、恐らく西鶴もある程度事実に基づいて著作したと思われる。ただ脚色された物語が、歌舞伎や浄瑠璃、歌祭文などで現在に伝えられ、事実として喧伝されているのは否めない。
やはり誰かに懸想して、それ故火付けの罪を犯したのだろうか。そう考えたほうが確かにロマンがあり、お七に哀切の情を感じるのは間違いない。

従って現在まで、吉三が実在したのか、実在したとしたら誰だったのかは残念ながら判別できない。八百屋お七の事件は調べれば調べるほど謎が大きく膨らんでくる。

 

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