乃木大将の旧居 六本木
その日は展覧会を見た後、そぞろ歩いてすぐ近くの乃木大将の旧居址を訪ねました。
思っていたのとは違い、ひどく質素な佇まいです。大将の人となりが窺われます。長州毛利家の士族の家系で、明治の将軍であり、伯爵でもあった人の家には、とても見えません。
こんな高潔な人物は、今の日本には一人もいません。そして仕えた明治天皇の葬儀出席のあと、帰宅した大将は、妻とともに自刃しました。命をかけて日本を守った、本物の日本人の最後でした。
二人の息子をも、亡くした日露戦争では、明治天皇に復命の際、「旅順の攻撃には半年の長日月を要し多大の犠牲を供し・・・・・」と述べて、自分の作戦の失敗から、多くの国民の命を落としたことの責任を痛感され、死をもって、国民の前に謝罪したい、といわれた。
「愧ず我れ何の顔あってか父老に看ん」という詩も、乃木希典の人間性を、素直に現わしています。
しかし、明治天皇は「今は死すべきときでない」と慰撫し、悲痛の乃木希典に、その心で昭和天皇の教育を頼むということで、学習院院長にと発議し任命されました。
学習院院長在任中の明治45年(1912年)夏のこと、生徒を引率して鎌倉に水泳訓練に行っているとき、天皇の容態の急変を知らされ、急いで東京へ帰り、病床を見舞ったが7月30日、天皇は崩御になった。
乃木希典の死が、許されるときがきた、と思われたことでしょう。
9月13日静子夫人を伴って、葬儀に参列し、天皇に最後のお別れをした後、赤坂の自宅にもどり、八帖の間に於いて、自決されました。
武官としての作戦の責任と、多くの犠牲を深く恥じた、乃木希典のこの自刃は、文人としての心情に裏打ちされた、武士道・明治の終焉でありました。
金沢に行ったときに出会った一家の生活を支える辻占売りの少年とのエピソードが書かれています