投げ込み寺 三ノ輪浄閑寺

三ノ輪の都電終点から日光街道へ出ると、すぐ目の前に大きな木が数本見えてくる、そこが投げ込み寺と称された浄閑寺だ。

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新吉原に近いことから、病気などで死んだ遊女達がコモに巻かれて門前に投げ込まれていたので、"投げ込み寺"の名が付いたらしい。その他火事や震災などで死んだ身元不明者が投げこまれたからとも言われている。

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寺の入口にお地蔵様があるが、これは「小夜衣(さよぎぬ)供養地蔵」と呼ばれる吉原の遊女小夜衣(さよぎぬ)の墓。吉原京町にあった四つ目屋善蔵の廓から火が出た、それを性悪な女主人が小夜衣の放火と偽り、罪をきせて火あぶりに処せられてしまった。その後、小夜衣の一周忌、三周忌、七周忌の度に廓内からは火が出て、ついに四つ目屋は全焼し潰れてしまった。廓内の人々は小夜衣の怨霊に違いないと、霊を鎮めさせる仏事を行ってからは不思議なことに火事は無くなったと伝えられている。

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入り口を入るとすぐに明治の「角海老楼」の遊女「若紫」(わかむらさき)の墓がある。若紫は器量よく性格も穏やかで誰からも好かれていた。5年間の年季があと5日で終わろうとする夜、登楼してきた一人の客の人違いから匕首で殺されてしまった。年季が明けたらと言い交わした許婚(いいなずけ)との生活を楽しみにしていた矢先の出来事で、朋輩も楼主もひどく残念がり、その死を惜しみこの世界では珍しく浄閑寺の寺内に墓を建てた。

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寺の奥には吉原で亡くなった遊女達の供養塔が建てられている。1657年から301年間にこの寺に葬られた遊女の数およそ3万といわれている。投げ込み寺は浄閑寺ばかりではないので、常時「遊女3000人」を誇っていた江戸随一の花街には、夥しい数の辛苦や病苦を味わって死んでいった若い娘たちがいたのだろう。それを嘆じた遊女買いのエキスパートでもあった永井荷風は、たびたびこの寺を訪れ碑を残している。

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この寺を訪れると投げ込まれた霊気のせいか、何となく暗く重苦しい雰囲気が漂ってくる。こうした悲しい運命の中に生きた若い女性が世界から1人でもなくなることを祈りながら寺を後にした。