セビッチェ

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中南米では、とてもポピュラーな食べ物で、生か多少ボイルした魚貝類に、たまねぎのスライスや、シンエントロという香菜(コリアンダー、今の日本ではタイ語パクチー)を入れて、かんきつ類のライムを搾ってかけます。

ここペルーの屋台では、茹でたトウモロコシなどが入っていましたが、さっぱりとして、お酒やビールのおつまみや、サラダ感覚で、ちょつと小腹が減った時に食べる、ファーストフードです。

生や半ゆでの魚貝類が入っていますから、屋台での飲食は胃腸の弱い方には、お薦めできません。すぐにお腹をこわします。

でも、こういう所の方が、レストランで出されるものよりも、大抵は、とても美味しいので、おじちゃんはよく食べました。お腹もこわしませんでした。こんなことを、嫌がっていたら旅行など出来ませんから。

 

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人生は宝くじ

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姪が出産したので、お祝いに暫らくぶりに中央線の西荻窪に降り立ちました。

姪も子供も元気でした。小さいころの姪のイメージが強いので、この子ももうそんな歳になったかと、風雪の流れの速さを感じました。

夜、帰宅すると知人から電話で娘さんの出産が死産だったとの報告がありました。何と気の毒で慰めようもありませんでした。

姪も知人の娘さんも、夫の仕事で海外生活をしています。まったく同じような境遇なのに、まるで天国と地獄のような結果です。

 

数学者のサミュエル・アーベスマンが『事実の半減期』(The Half-life of Facts)の中でこんなことを書いています。


『実はわれわれが存在するということは、すでに天文学的なほど小さな確率によっている。例えばあなたが受精卵だったとき、受精に成功した精子は1億個のうちのひとつだった。
そもそも不成功に終わった生殖行動も多い。そして両親の出会いから、第二次大戦中に祖父が弾丸を避けて生き残り、祖母に出会ったことまでも問題になってくる。だから、どんな人間であれ存在する人は皆、非常にわずかな確率を克服してこの世に登場してきたものなのだ。
 このような歴史上の「もし」は、いくらでも細分化して考えることが可能であり、そうなるとわれわれの知る「存在」というものが生じる確率は、もはや統計的にほとんど起こりそうもない、それこそ統計力学の領域で扱われるような数字になってくる。

 誰かが何度も成功しているからといって、必ずしもそこに理由があるとは限らない。それが存在をかけた争いであれ、あるいは単に株で儲けることであれ、それなりの数の人間が競い合う状況においては、成功することは合理的な理由を伴わない、単純な運不運の問題でありうる。』

おじちゃんが言うように『人生は運』だけです。ほかの要素は単なる本を売ったりするための方便でしかありません。いわく「幸運をつかむ風水」「幸運になる方法」「幸運を掴む生き方」。

すべて嘘です。どんな方法でも幸運なんてやってはきません。ただあるのは運のみです。
その運を呼び込むのは、その人のやり方考え方とそれらの本にはきっと書いてあるでしょう。とんでもない、人間はどんな人でもその人なりにみんな努力しています。

宝くじを買う行為も努力です。でも当たる人は一人です。『運しかないんです人生には』、ですから気楽に、運を天に任せて生きているのが一番ご気楽なんです。自分の能力以上の努力をすれば必ず、どこかでしっぺ返しが来ます。

能力以上の努力、つまり頑張らなくていいんです、人生は。気楽に、気楽に、運を天に任せましょう。

 

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野の花と税金

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線路はたで、タンポポに似た花が咲いていました。オニタビラコと云う名のタンポポの仲間の草です。葉はタンポポそっくりな形をしています。

散歩の途中で、こんな可憐な花に出会うと感激してしまいます。まあ、ジジイになった証拠でしょう。

60歳を過ぎると、昔ならジイさまに見える人もいたでしょうが。今では、80歳でも、そんなに驚くような歳では、なくなりましたから、日本人全体が10歳ほど、若くなっているのでしょう。40歳でも、まったくガキといっていいくらい、幼い人たちが増えています。最近生まれた人の平均寿命は、100歳になるそうです。おじちゃんは常々医術は、江戸時代と変わらないけれど、医薬が驚異的に進歩して、ほとんどの病に対抗できるようになったのと、検査機器が発達し、いち早く病気を、発見できるようになったお陰で、延命できる確率が、増えてきたということです。

 

長寿はいい事と喜んでいるのは、統計をとる人たちでしょう。実社会では、長生きすることによって、色々な問題が出てきました。社会制度が不完全な国で、長寿社会を迎えたのは、日本が最初です。軽薄マスコミに、毒されて愚民が増えてますから、今後も、社会保障や介護の問題だけでなく、様々な問題が出現するでしょう。税金や保険料の高騰、それに見合わない社会保障

 

社会福祉が、充実しているイギリスやスウェーデンなどでは、退職後の保障が行き届いていますから、あくせく貯金する必要も、そんなにはありません。それを当て込んで、アラブやアフリカから、大量の移民がなだれ込んで、社会問題化してはいますが・・。

ただスウェーデンなどは、収入の50パーセントが、税金などで徴収されます。それでも、社会保障の充実で、老後には安心した生活が出来るので、あまり文句を言う人はいないようです。

今の日本を見ていると、30パーセントか、それ以上の税金などを徴収されていながら、老後は、ばら色どころか灰色です。あと20パーセント多く支払っても、イギリスやスウェーデン並みの福祉と、社会保障があれば反対はしません。

でも、納付金を着服したり、役人たちの遊びのためや、野党の国会議員たちのように、本来の仕事もしない税金泥棒や、くだらないものに使われたのでは、堪ったものではありません。財務省は、国民が文句の言えない消費税の増税で、税収を増やす魂胆ですが、無駄なものに使われているのは許せません。

 

小さな花から、話題が飛躍してしまいましたが、日本人は優秀なはずですから、きっと、より良い社会に戻るようになると思います。そう願いたいです。

 

 

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パナソニックGMシリーズ

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長い間使うと飽きてしまうカメラが多い中、パナソニックLUMIXGMシリーズだけは飽きずに使い続けている。

何と言ってもその小ささ、軽さ、写りの良さは今まで使ってきた数百台のカメラの中では突出している。 

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今までに買い貯めた5台に加えて、楽天ラクマというフリーマーケットで程度のいいGM5のボディが売りに出ていた。後継機を何年も待っていたけれど、もう出そうもないのでコレクションと実用を兼ねて、購入した。製造中止になってからのGM5の値段は、発売時を上回る値段で推移していた。数十万とか、とんでもない値がついていることもあった。この小さなカメラにそんな値が付くのは、欲しい人が多いということに他ならない。

2000年にキャノンのixy digital という、とても小さいのを7万円で買ったのがデジカメの初めであった。f:id:mitokioquerido:20180510141135j:plain

その3年後、キャノンの一眼KISS DIGITALが発売されたのですぐに購入したあたりから、世の中がデジタルカメラの時代に大きく突入していった。コンパクトデジタルや一眼デジタル色々使って来たけれど、それぞれいい所と欠点があったが、ことGMシリーズに関しては欠点という所がない。ほぼ自分の使い方の中では完璧なくらい素晴らしいものを感じた。それ以来、いくつも買い足してきた。同じパナソニック だが、少し浮気をしてGF9やGX7mr2を購入してみたが、やはりGMの素晴らしさを凌駕する製品ではない。GX7mr2に関しては、重すぎておいそれとは外に連れ出す気にもならない。GMの軽さに慣れてしまうと、重いカメラは懲罰を受けているような気になってくる。

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    青森の露天商

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そもそもパナソニックがカメラ作りを始めた裏にはライカのデジタル技術の遅れがあり、パナソニックに助けてもらったようなもの。一方パナソニックもカメラでは超一流ブランドのライカと提携することでデジカメを作る上でプラスになることから、今日に至っている。

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この写真のライカMシリーズはGM1と同じ色使いなのは、どちらが先導しているのか不思議なくらいにそっくり似ている。

     

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よくパナソニックのデジカメを電気屋が作るカメラだと揶揄する批評家がいるが、GMシリーズを始めGXシリーズ、GHシリーズなどのAFの速さは、キャノンやニコンの最高級機種などよりも優れている数字が出ている。

スイッチを入れてすぐにシャッターが切れるのもストレスなく、バッテリーの減りが早いという人もいるが、ソニーに比べると3倍は使える。

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画づくりや操作性も全く不満のない完璧なものを感じるのは、長年のライカのカメラ作りから吸収した思想哲学に影響されているのは、確かだと思う。このカメラは、使ってみないことには本当のよさを認識できない。小さく軽い、これこそシャッターチャンスを逃がさない究極の道具としてのカメラだと思う。

 

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パナソニックには日本のライカというより、世界のLUMIXという呼び名を冠して、より使いやすいカメラを排出してほしいと思う。

 

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彰義隊の墓

 

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長州や土佐などのテロ集団が跋扈している京都を守護するために幕府は、会津藩に「京都守護職」を命じ、その一部を新撰組が受け持ちました。しかし慶応4年1月、それまで幕府側についていた薩摩が、幕府を裏切り長州と組み、その薩長軍によって鳥羽・伏見の戦いが始まりました。京都に滞在していた将軍慶喜は闇に乗じて、部下たちを置いて密かに江戸へ逃げ帰りました。


それでも忠実な幕臣たちは慶応4年5月(1868年)「大義を彰(あきら)かにする」という意味の彰義隊と命名した組織を立ち上げました。薩摩藩のスパイとして働いていた勝海舟は、武力衝突を懸念し彰義隊の解散を促したが、江戸に進軍してきた薩長軍と一戦交えようと各地から脱藩兵が参加し最盛期には3000~4000人規模に膨れ上がりました。

徳川慶喜の警護役をしていた、これも実は反幕勢力の一人だった幕臣山岡鉄舟を、幕府の正当性を支持していたもう一人の天皇である輪王寺宮の側近・覚王院義観と会談させ彰義隊への解散勧告を行いましたが、覚王院義観は鉄舟を裏切り者と呼び説得に応じませんでした。

そして、いよいよ江戸の街に薩長軍が侵入してきて彰義隊とぶつかりました。雨の降りしきる5月15日の早朝、戦端が切られました。長州の冷徹無情な大村益次郎が軍勢を率いてありとあらゆる武器弾薬を雨の中撃ちまくりました。本郷台の高台から4キロも届く最新式のアームストロング砲の砲弾を上野の山に撃ち込みました。刀が主力の彰義隊は、僅か一日で敗走せざるを得ませんでした。

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この戦いの最中、西郷隆盛は大村に向かって「オイは皆殺しにするつもりか」というほど凄惨で容赦ない攻撃でした。皆殺しを指示した大村は数百の死体を片付けることも葬ることも許さず、むせ返る暑さの中1週間以上そのままにさせました。それを見かねた徳川家の菩提寺であった増上寺や縁故者等が引き取りを申し出たましが、薩長はこれを容れず、南千住の円通寺の二十三世仏麿和尚と、寛永寺の御用商人であった三河屋幸三郎や侠客の新門辰五郎たちがこれを見兼ね、戦死者を上野で荼毘に付したうえ、官許を得て遺骨を円通寺に埋葬しました。円通寺には近親者などが墓碑を相次ぎ建立、上野では1869年(明治2年)、寛永寺子院の寒末松院と護国院の住職が密かに「彰義隊戦死之墓」と刻んだ墓碑を地中に埋めましたが、表立って彰義隊を供養することは憚られる状況が続きました。

薩長軍は、戊辰戦争会津でも2500人の死骸の埋葬を許さず、死骸からは死臭がしウジがわいていたということです。まさに江戸っ子や東北の人間のやる行為ではありません。鬼畜薩長許すまじです。

戊辰戦争終結の地函館での戦闘では、榎本武揚率いる幕府軍は敵である薩長軍の負傷兵を自ら作った病院で治療まで施しました。正にサムライ精神からです。それに引き換え薩長軍の非人道的な死骸の扱いは、日本人としてあるまじき行為です。これは後世の今の世でも糾弾すべきことです。

武士の生き様を最後まで貫き通した幕府のサムライや彰義隊士たちの心意気を、死体を放置することで汚した薩長軍のやり方、このお墓にお参りすると、志を汚されたもののふ達の嘆きが聞こえるような気がします。

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植物と人間

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春になると色とりどりの花が咲きます。これは、多くの花が1年以内に発芽から開花、結実を経て枯死に至る「一年生植物」で、春のうちに花を咲かせてしまって、次世代の種子を作ることに集中するためです。しかし、もともと植物は「多年生植物」だったと考えられています。

多年生植物は文字通り、複数年にわたって生存する植物のことで、一口に「多年生」といっても、1年通して緑色の葉をつけたままの「常緑草」、生長に不利な季節には地上に出ている部分は枯れて地下茎や根だけで過ごす「宿根草」があります。

しかし、多年生だと生きていくために多くのエネルギーを消費することになり、もし生育地域が水不足だと、十分なエネルギーが得られない可能性があります。そこで、少ないエネルギーでも確実に次世代を生み出すために出てきたのが、根や茎を生長させる力もすべて開花と結実に注ぐ一年生植物です。こうした事情から、雨の多い熱帯地域の植物は一般的に多年生です。

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現在のように世界中が、二酸化炭素の排出により天候不安の状態が長引くと植物たちは、自己防衛のために1年中常緑を捨てて、地上に出ている葉や茎はすべて枯れさせて、エネルギーを温存させてしまうかもしれません。そうなると葉で行われる二酸化炭素を吸い取って光合成を止めてしまうわけですから、地球上には二酸化炭素が充満し、動物の多くは死滅してしまうでしょう。このまま人類が成長を続ければ、いづれそういう危機が訪れると思います。現在でも、二酸化炭素排出世界一の中国では、毎年、排出した二酸化炭素によって900万人が死亡しているそうです。

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日本人の美意識

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蹲(つくばい)に無造作に置かれた栗の枝ですが、自然との和を尊ぶ日本の心が感じられます。

こんなに狭い坪庭に充満する和の心、日本人の美的感覚は世界一だと思います。

 

戦国の茶人"千利休"が重んじた「わび」「さび」の世界。おじちゃんは華美に陥らず、落ち着いた自然との融和こそ、日本の美だと解釈しています。

キンキラ金が好きだった信長や秀吉の趣味は、大陸の文化をそのまま取り入れたどぎつく、自然を尊ぶ日本人の感覚からは遠いものがあったと利休は感じていたのでしょう。そんな感覚の違いも秀吉との亀裂の原因の一つではなかったのでしょうか。

 

今のテレビや雑誌など、商業主義から華美に走り、特にテレビなどはエログロナンセンスの典型です。特に関西から吉本が東京に進出してきてからはひどくなりました。やはり日本の東の方は、大阪系の下品で低俗な芸や笑いは受け入れたくありません。

日本の美とは自然の中に、さりげないもてなしの心を感じるものだと思います。日本の笑いは「落語」の中に隠された『上質な笑い』が基本でした。

 

現在落語が衰退しているのは、あながち演者不足だけの問題ではなく、聞く側の理解不足が問題なのでしょう。志ん生師が言っていたように、昔は田舎のほうに行くと、落語を話してもお客はチンプンカンプンな顔をしていた、世の中の酸いも甘いもよく分かっていないと、落語と言うものは理解できないですから、と。確かに落語の『笑い』にはある程度の教養が必要です。

 

日本の美にはもっと高度な感受性と知識が必要です。安易なものに流されやすい現代においては、そうしたものは敬遠されてしまうのでしょう。残念です。

 

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ふたたびの都都逸(どどいつ)

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都都逸です。人生の機微を鋭く突いた言葉遊びですが、ウーンと唸るようなものがたくさんあります。日本人の言葉の使い方にはつくづく感服します。今も昔も変わらぬ"男と女"です

都都逸
末はたもとを絞ると知らで 濡れてみたのさ春の雨
あの人の どこがいいかと尋ねる人に どこが悪いと 問い返す
夢で見るよじゃ惚れよが足りぬ 真に惚れたら眠られぬ
逢えば笑うて 別れにゃ泣いて うわさ聞いては 腹立てる
親も気に入り私も惚れる、粋で律儀な人はない
酒も博打も 女も知らず 百まで生きてる 馬鹿なやつ
積もる思いにいつしか門の 雪が隠した下駄の跡


惚れさせ上手なあなたのくせに、諦めさせるの下手な人
不二の雪さえとけるというに 心ひとつがとけぬとは
ほれた証拠はお前の癖が いつか私のくせになる
察しておくれよ花ならつぼみ 咲かぬところに味がある
ぬしと私は玉子の仲よ わたしゃ白身で黄身(君)を抱く
枕出せとはつれない言葉 そばにある膝知りながら
惚れて通えば千里も一里 逢わで帰ればまた千里
たった一度の注射が効いて こうも逢いたくなるものか
口でけなして心で褒めて 人目しのんで見る写真

 

べに花とちの木

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文京区の理化学研究所の跡地に出来たグリーンコート内に咲いている、べに花とちの木の花です。マロニエ(西洋栃ノ木)の交配種です。とても感じのいい花で、おじちゃんは好きなんです。

最近ではあちこちで見るようになりました。神保町のすずらん通りにも、今頃たくさん咲いています。

 

 

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歳をとったと感じるとき

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もうだいぶ前から歳をとったなあーと感じることが多くなってきました。最近では全ての動作にそれ を感じるようになっています。

歳をとることは長寿といって、お目出度い事としますが、決してお目出度い事なんか一つもありませ ん。おじちゃんも還暦になりましたが、還暦自体意識もしないうちに勝手にやってきてしまいました

「生、老、病、死」お釈迦様が人間が生きていく上で避けられないこの四つの問題に、29才のときから生涯をかけて取り組んだことは、凡人のおじちゃんにはこの歳になって分かります。

生あるものは必ず死を迎えるということが、分かっていながら人間というものは、強欲なものです。
使いきれないほどの財産をためても、食べきれないほどのご馳走を食べても、これで満足ということを知りません。

犬や猫は、自分の死期を感じ取るようですが、ゴイサギなどはどうなんでしょう、将来のことも死についても考えることはないのでしょうか。現在 の空腹を満たすために一生懸命生きているのでしょう。

 

 

 

暖簾

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京都に行くととても気になるものがあります。看板の文字と暖簾です。看板文字には機械文字でない、様々なデザインの手書きの書体が目に付きます。

それともうひとつは暖簾です。日本国中でこれほど洗練された暖簾がある場所は、京都を置いて他にはないでしょう。これは京都人の気質の象徴です。商売を大きくするより、存続させること、つまり暖簾を守ることに重きを置いてきたからです。なんと言っても千年以上続いている老舗が何十件とあるのですから。

その頃から京商人にとって暖簾は、店のシンボルでありプライドであり、家への責任感の象徴だったのです。平安時代の几帳を模した暖簾は鎌倉、室町と時代を経るほどに洗練され、江戸に入るとほぼ完成された形になっていったようです。

本当に京都の暖簾は、えも言われぬデザイン性、芸術性に優れています。日本文化の凝縮といっても言い過ぎではないでしょう。

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息苦しい天空の都市

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ボリビアで一番の大都会ラパスは高度3800mのアンデスの山の中に突如現れます。街に入るには、大きなあり地獄のような形状の街の一番上からぐるぐると下って行かなければなりません。

普通は高台が高級で地価が高いのが世界の常識ですが、ここラパスでは面白いことに、あり地獄の底の部分が一等地になっています。


この街では絶対に歩いて高台には行かないほうが無難です。必ずバスで高いところまで行って下ってこなければ、すぐに高山病にかかってしまいます。ただ歩くだけでもすごく苦しくなります。酸素が 平地の半分しかないからです。

おじちゃんは一週間すれば慣れると、現地の人に言われましたが息苦しさは一週間過ぎても続きました。何度酸素ボンベのお世話になったか分からないくらいです。大きなホテルには入り口に酸素ボンベが常備されています。それほど息苦しい街です。

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ある晩、街で知り合ったボリビア美女を誘い、食事にとホテルを出てレストランを探しました。あまり歩くと息苦しくなるので、わりと近くの一軒の民家のようなレストランに入りました。本当に民家をレストランにしたもので、家族で経営しているようです。応対したタキシードを着たボーイ姿の男の人がオーナーのようです。素人ぽい所に何か暖かいものを感じました。

料理が運ばれてきて、一口食べるとナント美味しいこと。それは今まで食べたラパスで一番美味しい料理でした。

 

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全てが美味しく充分満足したので、それを伝えると、食後のお酒で自家製の取って置きのがあるからと、グラスに一杯運んできました。下戸のおじちゃんは、それでなくても息苦しい天空の高地です。
アルコールが入ると良くないとは思いつつ、同伴の美女の奨めもあって、折角出されたものを断るわけにいかないので、ひと口呑みました。ほんのり甘くとてもフルーティで、下戸でも呑みやすいものでした。

元々呑めないのに、温かいもてなしに、しかも美人の前でつい断れずに呑んでしまったのがいけませんでした。急に動悸が激しくなり、なんと気絶してしまいました。酸素が少ない高地で飲みつけないものを呑んだせいです。

気がつくとベットの上で、医者とレストランのオーナー家族とくだんの彼女が見守っていました。何と恥ずかしかったことか。気がついたときの、彼女の怒りようがすごかったのを思い出します。また、えらく迷惑をかけてしまったことを。でも暖かい旅の大切な思い出です。

 

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カリフォルニア

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60年代の反戦運動激しかりし時代の、アメリカのピッピーのコミューンで生活していたときの写真です。

10数人が、バークレーのビクトリア風の一軒家を借りて、住んでいるところへ居候していました。英語がろくすっぽ話せず往生しました。

そしてカルチャーショックの連続でした。毎晩お茶が恋しくなったものです。殆どの国で手軽に日本食品が手に入る今では考えられませんね。

 

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 オンボロのホルクスワーゲンを借りて、サンフランシスコの町から郊外へとフリーウェイを運転しましたが、途中からどの辺りを走っているか分からなくなり、数時間どこをどう走ったのか、ガソリンスタンドで地図をもらい、片言の言葉で帰り道を聞きましたが、分からずに不安が募りどうしようもなくなりましたが、明日になっても何とかなるさ、と考えると少し楽になりました。すると不思議なことに数日前に一度連れて来てもらった場所に出くわしました。そして出来る限りの記憶を辿ってやっとのことで帰り着くことが出来ました。

一日の冒険でしたが、そんなことも思い出の一つです。

 

 

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隅田川の橋番

 

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隅田川には都内だけでも22の橋が架かっているそうです。特に有名なのは勝鬨橋永代橋言問橋吾妻橋などの名前の、一つぐらいは聞いた事があると思います。

その数多くの橋の中から歴史的遺産として3つの橋が重要文化財に指定されました。勝鬨橋永代橋清洲橋の3つです。

3つなんてケチなことを言わず、もっとたくさん残していって欲しいものです。それでなくとも東京はどんどん変わりすぎてしまいますから。

江戸時代の昔は橋は戦略的な意味合いから、僅かしか架けられませんでした。殆どは渡し舟に頼っていたのです。

その頃の橋には、橋番という見張り役がいたそうです。こんな話があります。

 

昔はこのー、何処の橋にも、橋番という者がいて、その橋から間違いが起こると、橋番の責任になりました。

『こういうように毎晩身投げがあっては、困るではないか。ええ、その方がそこにいて分からんのか。しっかり見張っておれ』

『へえ、どうも、あいすいません』

などと言って、上役に叱られたので、その晩、こー、じっと見ていると、ひとりバタバタと駆け出して行って欄干につかまり、飛び込もうとするやつを後ろからつかんで、

 

『てめえだろ、毎晩ここから、身を投げる野郎は・・・』

 

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エーゲ海でグロッキー

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紺碧な色で見る人を魅了するエーゲ海

夏のギリシャでのことでした。イタリアからギリシャに来て数日後、かみさんが急に体調を壊しました。ジンマシンが出て医者に診せたところ食中毒とのこと。数日前イタリアで食べた貝が原因らしいです。

まあそれでも折角来たギリシャです。1日だけ休んで少し回復したかみさんを連れてエーゲ海クルーズに申し込みました。

港に行くと大きな客船が待っていました。意気揚々と乗り込んだまではよかったのですが、船内は蒸し風呂状態です。30分もしないうちに乗客の中の子供たちがあちこちでぐずり始めました。おじちゃんはかみさんを連れてデッキに出ましたが、夏のエーゲ海がこんなに暑いとは思ってもいませんでした。中学校で地中海性気候といって、カラッと湿気がなく爽やかだと習っていたのは嘘でした。

 

船の何処にいても耐えられない暑さです。しかも港に戻るのは夜です。船内はぐったりとした人ばかりです。具合が悪くなる人も多勢いました。しかし驚いたのは、こんな暑さなのに汗もかかずに元気な人がいたことです。もちろんかみさんはグロッキー、おじちゃんも我慢できない不快感に包まれていました。

 

暗くなりかけた9時近くに、船はやっとアテネの港に帰り着きました。散々なエーゲ海クルーズでした。こんなに暑くなったのは、地球の気候がおかしくなっているからだと船員が言っていました。

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アクロポリスの丘にそびえるパルテノン宮殿

 翌日、アクロポリスの丘のパルテノンに行く予定でしたが、やはり暑さで弱ったかみさんのことを気遣い中止しました。

少し涼しくなった夕方、道路にしつらえられたレストランのテーブルの特等席から丘の上のパルテノンをたっぷりと眺めました。暗くなるとライトアップされ、さらに美しい姿になっていきました。風もクルーズの時よりずっと心地よく感じました。