本郷もかねやすまでは

f:id:mitokioquerido:20180728111614j:plain

江戸時代の地図を広げると、現在の東京大学から北の方は畑地とか百姓地になっていて家は中山道に沿ってわずかに点在する程度です。

『本郷もかねやすまでは江戸の内』という川柳の通り、本郷三丁目から北は江戸御府内ではなかったのです。現在の東大の前あたりの旧森川町も淋しくて辻斬りがよく出たそうです。

明治の初期の地図でも江戸時代とそれほど変わりなく、江戸の範囲は狭か ったのですね。

交通手段が徒歩がメインですから感覚的にはそれでも広かったのでしょうが、江戸の初期には百万都市として、現在でいう政令都市として江戸の町は世界一の人口をかかえていたのです。

交通手段があまり無い江戸時代の人たちの健脚ぶりはすごいものです。江戸詰めの紀州御家人(下級武士)の江戸滞在日記に江戸城の藩邸から向島まで花を見に行った翌日は飛鳥山まで往復し、次の日もやはり40キロ以上歩いています。これが普通だったのですね。

芭蕉や明治の文豪の漱石や、昭和の荷風にしても同じように一日40キロほどとよく歩いています。散歩をしだして気がついたのですが、車や乗り物では気がつかない街の面白さが発見できるのです。

今は『本郷のかねやすまでは江戸の内』なんて、まったく馬鹿げていますが歩いてみると自分の住む町にも新しい発見があるかもしれません。