本郷もかねやすまでは

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江戸時代の地図を広げると、現在の東京大学から北の方は、畑地とか百姓地になっていて、家は中山道に沿ってわずかに点在する程度です。

『本郷もかねやすまでは江戸の内』という川柳の通り、本郷三丁目から北は江戸御府内ではなかったのです。現在の東大の前あたりの旧森川町も淋しくて、辻斬りがよく出たそうです。

明治の初期の地図でも、江戸時代とそれほど変わりなく、江戸の範囲は狭かったのですね。

交通手段が徒歩がメインですから、感覚的にはそれでも広かったのでしょうが、江戸の初期には百万都市として、現在でいう政令都市として、江戸の町は世界一の人口をかかえていたのです。

交通手段があまり無い、江戸時代の人たちの健脚ぶりはすごいものです。江戸詰めの紀州御家人(下級武士)の江戸滞在日記には、江戸城の藩邸から、向島まで花を見に行った翌日は、飛鳥山まで往復し、次の日もやはり40キロ以上歩いています。これが普通だったのですね。