中野にて

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猛暑と台風ばかりでまだ蒸し暑さは夏の暑さですが、9月も中旬になったのでもう少しの辛抱というところです。大した用はなかったのですが時間が余ったのでブロードウエイをぶらつきました。アーケードになっているので風の通りが悪く、人いきれのせいも手伝って外よりも暑いくらいです。東京のどこも同じようですが、ここでも外国人の姿が目立つようになりました。

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欧米からの観光客は、日本の文化や歴史に興味を持って来日するからまだしも、支那からは金儲けが目的で来てそのまま住み着いてしまうから厄介です。あんな民度や文化や道徳心やマナーのない土人たちが大量に来て、日本に住み着き3年経てば帰化できてしまうなんて国、世界中で日本だけです。害務省、法無省、いい加減にしろよ!更に文科省は中国人に限り留学生は奨学金が無審査で年間380万円最低5年間もらえます。修士課程は7年間なんと2700万円ももらえ、しかも返済の必要はありません。日本人学生の奨学金は年間60万円ほどで返済の義務が永久に付きまといます。

中国からの留学生、偽も含めて30万人もいます。このカネは税金からです。害務省、文科省、政治家お前らなに考えてる。尖閣に毎日軍艦で脅し、日本近海は支那土人の汚い漁船団が魚を採り尽しているのにだ。しかも留学生以外も日本人の健康保険を無料で受けさせ、支那で受けたという偽の証明書で数百万の治療費を支払う。こんな国どこにある。だから医療費40兆円を超えてしまった。

あんな蛮族の土人たちを入国させて、多額の奨学金をあげて、しかも3年住めば日本人として帰化を認めるなんて愚作誰が考えたんだ。バカヤローと怒鳴ってやりたいですね。ヨーロッパに押し寄せるイスラム教のカルト集団が今どうなっているか知っているだろうバカ役人どもめ。かつて素晴らしい国だったスエーデンでは、イスラムのカルト野郎たちに女性が強姦される割合が98倍にもなってしまった、ということ一つとっても"移民が国を潰す"のが事実なのが分りそうなのに。

もういい加減に支那韓国からの移民は、絶対受け付けず、それらの国からの観光客もキャンセルすべき事態なのは明白なのに、小泉改革で日本をおかしくした竹中平蔵たち派遣企業と官庁、小泉のような政治家が企んで日本は"少子高齢化"が進んでいるから移民推進を、とほざく。少子高齢化何がいけない。いくらでも方法はあるし、日本の高度成長は8千万人台の人口で成し遂げてきたのです。高齢者といえども世界最高長寿の国、70、80でもピンピンしている年寄りは余るほど存在するし、ロボット技術も世界一の日本なのに、なぜ犯罪者予備軍の移民が先なんだ、と叫びたくなります。

とにかく支那朝鮮人の入国を即禁止にしないと日本は本当に潰れてしまいます。

 

中国の節操のなき化石燃料使用による地球温暖化

 

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 記録的な猛暑や干ばつ、次々に襲う竜巻、洪水を引き起こす豪雨……。近年、世界各地で大きな被害をもたらす極端な気象現象が続いている。その背景には、地球全体の気温と湿度の上昇傾向がある。果たしてこれは地球温暖化が原因なのか。そして、地球のこの変化に人間はどう立ち向かうべきなのか。気候のシステムを解説するとともに、今、私たちがなすべきことを考える。

 現在、世界の30%の人々が、死に至る恐れのある暑さに年間20日以上襲われていることが、新たな研究によってわかった。こういった熱波は気候変動によって大きく広がっている。
原因は中国による人為的要因による気候変動にあるとする最新レポートが公表された。
ボルダーにあるNOAAの研究所レポートには、2013年にヨーロッパ、アメリカ、日本、オーストラリアの地域で発生した熱波についての調査結果も掲載されているが、いずれもが「化石燃料の消費といった人為的要因がもたらす気候変動によって、異常気象の深刻度や発生頻度は顕著に高まっている」と結論付けている。

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二酸化炭素濃度が400ppmの大台を突破
 ハワイのマウナロア観測所で観測されている二酸化炭素濃度の年間平均値が、今回初めて400ppmの大台を超えた。標高が高く、局所的な変動の影響を受けにくいマウナロア観測所は、世界で最も長く二酸化炭素濃度を観測している観測点だ。

2040年には北極海の氷がなくなる
「北極圏では温暖化がどこよりも早く始まり、急速に進んでいます」と、ランス号を運航するノルウェー極地研究所の国際部長キム・ホルメンは話す。気候モデルを使った予測では、早ければ2040年の夏には、氷のない海域を通って北極点まで行けるようになるという。
北極海の氷は太陽光を反射し、地球を冷やす役割を担っている。その海氷が減れば、北極圏以南でも気候や気象に影響が及ぶことは避けがたいだろう。ナショナル ジオグラフィック

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 年間70億トン以上も消費されている石炭。その需要は今も増え続け、環境への影響も深刻化してきた。中国に目を転じれば、最近の北京市内は空港ロビーの喫煙所以上に汚れた空気に包まれる日が多い。中国の大気汚染の主要な原因は石炭の燃焼だ。呼吸器疾患など、大気汚染が原因とみられる死者は年間100万人を超える。

 石炭は莫大な社会的代償を伴う燃料であり、最も環境負荷が大きく、最も多くの死者を出しているエネルギー源だ。しかし、こうした負の側面を考慮に入れなければ、燃料としては最も安い。実際、私たちは石炭に依存した暮らしを送っている。

 

 

 

本郷菊坂

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本郷菊坂の途中にある階段ですが、この階段を下りて細い露地を入ったところにあの樋口一葉が住んでいました。一葉もこの階段を何度も上り下りしたことでしょう。上りきったところには彼女がよく通ったといわれている伊勢屋という質屋さんがあります。今は営業していませんが建物はしっかり残っています。一葉女史が困っているとき、伊勢屋の主人は黙ってお金を貸していたということです。日本人の多くは貧しい中でも他人のことをいつくしむ心を持っていました。

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今の時代と違い以前の日本はとても貧しい国でした。社会資本も満足に完備されていない社会ですし食べるものも、そう豊富に揃っていたわけでもありません。伊勢屋といえども、商売ですので簡単にお金は貸せないのにやはり日本人というのはどこか優しさや人を思う心を残しています。

昭和に入っても、シナとアメリカに仕掛けられた戦争で、日本国中が焦土と化しました。米軍は罪のない一般人の住む場所に一度に数百トンの焼夷弾などの爆弾を撒き散らし日本の街々は焼け野原になってしまいました。しかし、そんな中でも日本人は略奪や泥棒などとは一切関係のない存在でした。東北の大地震のときも日本人の礼儀正しさが世界を驚かせました。戦時中も東北でも泥棒はシナ朝鮮人だけでした。

戦後の東京裁判でも在りもしない南京事件などを言い出したのはシナとアメリカです。シナはいつも他人のせいにする土人ですし、アメリカは日本人を残虐非道な民族としないと原爆投下や焼夷弾投下で一般人を80万人以上殺したことの言い訳が出来なくなるので、シナと協力して日本人を貶める裁判を行ったのです。

この裁判はいわば連合軍の非道さを隠すためのものですが、その策略に金儲けや利権に群がる人間があちこちに出現しました。反日弁護士や政治家やマスゴミです。こいつらの多くは、帰化したりしたシナ朝鮮人だそうですが、そいつらが未だに日本では幅を利かせています。

一日も速く占領中のアメリカのコミュンテルン(共産主義者)の一団が作った、日本の憲法を反故にしなければなりません。憲法改正反対などと叫んでいるのは、すべてシナ朝鮮人たちです。覚醒している日本人が北朝鮮や韓国、シナチャンコロの暴挙を目の当たりにして反対などするはずがありません。日本人は、周りの人たちや自分の命が失われるかもしれないのに、それでいいですという国民ではけしてありません。もっと高尚な考え方を胸の奥に秘めているのが日本人です。しかし、テレビしか見ていない女性や年寄りは、シナ朝鮮人の放送する嘘にすっかり洗脳されています。この洗脳を解くのと、貧しいときの日本人がいかに高潔だったかを思えば自ずと本来の日本人の心を取り戻せると思います。

 

 

遠いうなぎ

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九州の友人から"うなぎ"が届きました。大きなうなぎです。こんなに大きいのは久しぶりです。色が濃いので、味はどうかな、と思いましたが、食べてみるとこれがとても柔らかく美味しいのです。

悲しいかな、1匹はとても食べきれなくなっています。歳をとったせいなのと、ここ何年かの内に小さいうなぎに慣らされてしまったせいでしょう、自分ながら残念です。日本人が、値段の高騰からうなぎ離れして10年ばかりの内に、小さくて少量のうなぎで満足してしまうような、せこい食生活に慣れてしまったのでしょうか。

これもシナ人たちが日本のEEZ内にまで入り込んで根こそぎ盗漁していく結果です。本当にシナチャンコロたちは、だれかれ構わずに世界中に迷惑を掛けまくっています。

日本などのお陰で生活が豊かになり始めたのに、恩知らずに領土の拡大を図り沖縄、尖閣、北海道にまで手を伸ばし穢れた遺伝子の蛮族シナチャンコロ土人たちを日本に大量に送り込み日本の全てを侵食し始めています。

チベットなどでは言葉さえも世界一汚いシナ中国語を強制し、チベット人同士の結婚さえ禁じ、チベット女性に地球上最悪なシナチャンコロの遺伝子を生産させる政策を取ってシナ化がかなり進んでしまっています。

世界制覇を企むシナ中国を反中国連合で今すぐにでも殲滅しなければ、地球上では人間が住めなくなる環境が進み、今、全世界で生まれてくる4人に1人のシナ中国人が2人に1人といづれは全人類が動物以下のケダモノシナチャンコロだらけになってしまうでしょう。

 

 

縄文時代と弥生時代

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弥生文化の名前の由来は、ここから土器が出土したことから名づけられました。文京区弥生に存在した縄文時代弥生時代の複合遺跡とブリタニカ辞典に出ていますが最近の研究では、縄文文化弥生文化は同じ種族によって継続した文明であったのではないかという説が唱えられ始めています。

われわれ日本人が学校で習ったのは縄文時代弥生時代は、種族が違って従って文化も異なっていたと教えられました。稲作は弥生時代から始まりその文化は大陸からもたらされたと教えられました。紀元前3000年頃から始まったといわれる稲作も、もっと以前の6000年ほど前の水田の遺跡が九州南部にいくつも発見され日本における稲作の歴史も怪しくなりました。

縄文時代といわれる想像像

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弥生時代の想像像

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上の写真はわれわれが習った縄文、弥生時代といわれている想像画ですが16000年前から4000年ほど前の縄文人ですがあれだけ斬新な土器を作っていた人たちがボロボロの貫頭衣を纏っていたわけがないと思います。もっと斬新な刺繍や飾りが施された衣服を身に着けていたと思われますし、弥生時代にしても同様に思います。どちらもわれわれが教えられてきたよりもはるかに進んだ文明を持っていたと思います。さもなければ厳しい時代を生き抜くことは出来なかったと思います。

考古学者も日本を弱体化させる米国の差し金でマッカーサーGHQの行ったWGIP(ワー ギルト インフォメーション プログラム)という戦争犯罪史観に従った人間だけが生き残り、日本の歴史や文化を貶めることに励んできました。その結果以前から日本にあった稲作を大陸からもたらされたものとし弥生人縄文人に代わって大陸からの渡来人という、全く誤った歴史観に邁進してきました。しかし最近の研究では縄文人弥生人も同じ人種の連続で文化の混合が始まっただけだと解釈され始めました。

日本人のDNAは大陸のシナや朝鮮の遺伝子とは全く違うという検査結果が出ているそうです。稲作が大陸からのものではないという証拠も九州にはたくさん発見されたそうです。稲のDNAも東南アジア系のインドネシアやフィリピンのものと同様のもので大陸とは違うことも分かってきました。

世界の考古学者の間で縄文文化こそ世界最古の文明ではないかという話題が上っているそうです。

 

 

 

大国魂神社

 

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府中に鎮座する大国魂神社ですが、広い敷地の中に1900年もの永い時の中に息づいています。ここに来ると背筋がピンとなり、いや応なく荘厳な気持ちにさせられます。日本人の殆どが知っている、因幡の白兎を助けた"大国主命"(オオクニヌシノミコト)を祀ってある神社です。

最近よく思うのですが日本人の心の中には、やはり神様が一番に存在して、その次に仏様やキリストなどが存在しているのではないかと考えています。その証拠に何かお願いするときは、"神さま"とつい祈ってしまいます。

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日本人には神様を崇拝する気持ちが、生まれたときから自然に備わっていると思います。日本には"八百万の神"(やおよろずのかみ)と数限りない神が存在しているのですから。それは空にも海にも山にも、道端の石ころにまで神様の存在を宿していると、昔から日本人は考えています。それほど、自然の中にたくさんの神を日本人は感じているのです。それは一神教キリスト教イスラム教、ユダヤ教などと違い、神が自然を創ったのではなく、もともと自然がありそれがさまざまなものの根本だという考え方なんです。

根本に神の存在を認めるからこそ、日本にはキリスト教や仏教が広まったと言われています。キリスト教徒は数パーセントしかいませんが、仏教は広く普及しています。それは"教え"というよりも生活の中の一部分として取り入れているもので、それによって神を信じなくなるような存在ではありません。しかも仏教は他の宗教とは違い"神"が存在しません。信心するものが自ら悟りを開いて"仏"になると言う宗教です。神の国日本では一神教よりも取り入れやすい宗教だったのです。

しかし、現実の社会では仏教寺院では、京都のように高い拝観料を取り坊主が悪徳商人へと堕落していますし、神社でも結婚式など商業活動が盛んです。しかし多くの日本人はそうした風潮よりは、むしろ自分の中の"神"を大切にしている傾向が強いようです。この傾向が変化しない限り、日本の"八百万の神"は永遠になくならないと考えます。

 

 

江戸のラスト侍たち

 

 

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隅田河畔に建つ勝海舟

今、佐々木譲の『武揚伝』という本を読んでいますが、その前に榎本武揚率いる蝦夷共和国軍に加わり新撰組などとともに薩長の新政府軍と戦い、函館で戦死した中島三郎助を描いた『くろふね』という同じ作者の本で勝海舟のことに触れていますが、おじちゃんが以前読んだ『勝海舟』では、江戸無血開城をした英雄として描かれていますが、以前からこの勝海舟山岡鉄舟などは、本当は薩長に雇われたスパイなどという疑問を持っていました。

勝海舟戊辰戦争のかなり以前から薩摩と昵懇の仲であり、頻繁に薩摩屋敷に出入りしていたそうですし、山岡鉄舟は、幕府転覆を図っていた策士清河八郎を長い間自宅に居候させていました。このこと一つとってもこの二人が反幕勢力に加担していたのは明白でしょう。幕府軍薩長軍に江戸城明け渡しなどはせずに、最後まで徹底抗戦していたらと江戸っ子のおじちゃんは思ったりします。そこには薩摩の間諜になった勝海舟と薩摩郷士西郷隆盛との事前の密約があったのです。

さて、海舟ですが『武揚伝』でも『くろふね』でも口先ばかりのごますり家として描かれています。確かに御家人から軍の最高位の陸軍総裁にまで上り詰めるには、その口先と機を見る才覚に優れた策士であったことは明らかでしょう。

『武揚伝』の中の一節に
「咸臨丸の帰国後、勝麟太郎は幕府から放遂される。航海中に艦長としてはまったくの無能であったことが知れ渡ってしまったし、太平洋上で帰国を言い出すなど、人格の幼さも暴露された。そのくせ、ひとを押しのけても目立とうとする性格である。幕府は勝は海軍にはむしろ有害な人物と見たのだ」
という部分があります。これだけではなく各所で勝海舟の無能振りが出てきますが、恐らくそれに近い人物だったのでしょう。

それとは正反対の人物が、中島三郎助です。日本人として初めてペリーのアメリカの蒸気軍艦に乗り込み交渉し浦賀奉行の与力です。幕末当時の浦賀は外国船が次々と訪れ開国を迫りました。造船家で砲術家でもあった三郎助は、日本にも西洋並みの大砲と蒸気で動く軍艦の必要性をいち早く説いた人物でした。幕府が開いた長崎海軍伝習所の造船学を学ぶ一期生で勝海舟と同期でした。

戊辰戦争の激戦が始まり、幕府軍蝦夷に追い詰められると十代の二人の息子を伴い榎本武揚率いる旧幕府軍に加わり、代々世話になった幕府の恩に報いるため私欲を捨てて戦いました。本陣前衛の千代ヶ岱陣屋を守備し陣屋隊長として奮戦し、いよいよ砦が破られるとき部下たちを本陣に逃がし、自分と二人の息子で薩長に対する最後の抵抗をして、明治2年5月16日銃弾に倒れました。三郎助が戦死する数日前に箱館で壮烈な戦死を遂げた土方歳三と共に、君恩に殉じた“最後のサムライ”の一人でした。

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一方、オランダ留学から帰った榎本武揚は、オランダで製造された蒸気船の開陽丸で薩摩軍と交戦した阿波沖海戦に勝利しましたが、幕府軍は陸戦での鳥羽伏見の戦いで惨敗し、さらに大坂城に留まっていた最後の将軍徳川慶喜が部下を捨てて突然江戸へ逃亡しました。戦意を喪失した幕府軍はなだれを打って敗退してしまいました。勝海舟幕府軍艦をすべてを薩長に差し出せというのを武揚は断り、精鋭艦数隻を率いて薩長軍に抵抗しました。

    榎本武揚

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海戦では榎本武揚率いる幕府海軍は連勝しましたが、幕府軍の敗走に伴い北へ北へと退かざるを得ませんでした。若いときに視察した蝦夷の地に新天地を求めて幕府軍を率いて転戦しました。しかし、西洋式の武力に優る薩長軍に明治2年5月18敗れ去りました。長崎海軍伝習所で一緒に学んだ中島三郎助の戦死とともに自刃しようとする武揚を部下が止め薩長軍に投降します。

その後2年半ほどの投獄生活の後、薩摩藩士で後に総理大臣になった黒田清隆に、その能力を日本のためにと懇願され、新政府の北海道開拓使として働き始め、駐露特命全権公使逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任し日本の発展に力を注ぎました。榎本武揚勝海舟を、幕府軍でありながら薩長の新政府に仕えるなど言語道断という意見も多くありました。しかし、勝との違いは榎本武揚博学のすごさです。伊能忠敬の弟子だった父が従事していた測地術、蘭学の内オランダ語、英語、仏語、造船学、科学、物理、化学、海洋法、航海術、国際法、漢学とあらゆる分野で教授が出来るほどの学問を習得しています。惚れ惚れするほどの江戸っ子気質の持ち主でもありました。しかも私利私欲よりも日本を心から愛する人物でもありました。勝海舟や金儲けの権化坂本龍馬など以上に日本の歴史に顔を出すべき人物だと思います。ただ惜しむらくは決断力に甘さがあり、一歩遅れることがあったので北方へ追い詰められる幕府軍の武揚率いる海軍による海からの支援が数ヶ月早まっていたら、薩長によるクーデターも変わっていたのかもしれません。江戸っ子としてはそれが非常に残念です。

 

 

 

本郷もかねやすまでは

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江戸時代の地図を広げると、現在の東京大学から北の方は畑地とか百姓地になっていて家は中山道に沿ってわずかに点在する程度です。

『本郷もかねやすまでは江戸の内』という川柳の通り、本郷三丁目から北は江戸御府内ではなかったのです。現在の東大の前あたりの旧森川町も淋しくて辻斬りがよく出たそうです。

明治の初期の地図でも江戸時代とそれほど変わりなく、江戸の範囲は狭か ったのですね。

交通手段が徒歩がメインですから感覚的にはそれでも広かったのでしょうが、江戸の初期には百万都市として、現在でいう政令都市として江戸の町は世界一の人口をかかえていたのです。

交通手段があまり無い江戸時代の人たちの健脚ぶりはすごいものです。江戸詰めの紀州御家人(下級武士)の江戸滞在日記に江戸城の藩邸から向島まで花を見に行った翌日は飛鳥山まで往復し、次の日もやはり40キロ以上歩いています。これが普通だったのですね。

芭蕉や明治の文豪の漱石や、昭和の荷風にしても同じように一日40キロほどとよく歩いています。散歩をしだして気がついたのですが、車や乗り物では気がつかない街の面白さが発見できるのです。

今は『本郷のかねやすまでは江戸の内』なんて、まったく馬鹿げていますが歩いてみると自分の住む町にも新しい発見があるかもしれません。

 

 

 

カラス

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 都会で嫌われているもののトップは鳩とカラスだろう。前に住んでいたマンションには鳩が巣くいフン害でひどかった。いくら対策を講じてもすぐに慣れてしまい最後にはベランダごと網で蔽ってやっと防いだ事が あったが、網を張ると住む側もうっとうしくて、仕方なく引越しをした。
だからおじちゃんは鳩が大嫌いだ。

もう一つの嫌われ者がカラスだ。朝早くからカアカアとうるさいし、ゴミを漁り散らかすので迷惑がられている。一説によるとカラスは犬よりも知 能指数が高いそうだ。おじちゃんは犬は飼った事があるがカラスは飼った事がないので分からないが、犬以上だとすると相当なものだ。確かに巣を作るにしても線路の高い鉄塔の上に針金ハンガーで造っているのを見た事がある。

最近はついぞ見かけなくなったがずいぶんと人馴れしたカラスが1羽いた 。いつも自転車置き場の自転車の上にとまり、行き交う人を観察でもしているかのように泰然としている。そばに近づいても脅かさない限り決して逃げない。恐らく人に飼われていたのだろう。本来カラスを飼ってはいけないのだが、このカラスにとっては飼われているのと厳しい環境の都会の 中で活きてゆくのとどちらが幸せなんだろうか。

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このところ中国の環境破壊による異常気象のせいで自然の中で生息している動物たちが里に出没したり、熱帯にしかいなかったものが本州の何処に でも住み着いたりとどんどんと自然が犯されている。それを安易に殺してしまったりする映像がテレビで放映されるが、本来人間のほうが悪いのに 可哀想なことだ。カラスも昔は山に住んでいたのに今では都会が住処になってしまった。最も今の嘴太カラスはおじちゃんの小さい頃にはいなかった。これも自然破壊が進んだ現象の一つなのだろう。

 

 

 

ビリー・ザ・キッド

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ネットを見ていたら、ビリー・ザ・キッドに関することが出ていたので、読み進むと、7年ほど前、ある骨董品店で2ドルで売り出そうとしていた古い写真を、1年がかりで鑑定してみると、アメリカ人が熱狂する「ビリー・ザ・キッド」の写真だと分りました。

この写真をオークションにかけると、驚いたことに6億円の高値で落札されました。ビリー・ザ・キッドは、それほどアメリカ人には人気のある人物のようです。

生まれたのは、1859年ニューヨーク。21歳で射殺されるまでに、21人殺したと噂されています。アメリカでは、義賊としての評価が高いようです。

実際は、アウトローなのでしょうが、世話になっていた雇い主の英国人タンストールが、対立する勢力に殺害されたのを義憤から、あだ討ちしたことが義賊としてのビリー・ザ・キッドの名声を高めていったのでしょう。

友人だった保安官のパット・ギャレットに射殺されたのが、1881年の明治15年です。ニューメキシコ準州だったリンカーン郡でのことで、撃たれた時の最後の言葉が「キェンネス」(誰だ)と、スペイン語で喋った、と言うことです。当時のニューメキシコは、アメリカがメキシコから取り上げた土地でしたので、メキシコ人たちも多く住んでいたと思います。そんな環境では、ビリーもスペイン語が堪能だったと思います。そんなことから、メキシコでも、ビリーは人気があるそうです。

それと、この写真では拳銃が左に見えますので、ビリーは左利きというのが、通説ですが、洋服のボタンの位置が反対なので、左右反対の写真からの推論だと思います。

 

 

ラオスの朝市にて

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朝まだ暗い5時に起き、ホテルから30分ほど離れた、朝市の開かれる広場まで歩きました。

まだ暗さが残る中、沢山の人たちが集い、荷物を下ろしています。各自めいめいに、場所割りに沿って、店を開いてゆきます。野菜が多いですが、海のないラオスでは、いろいろな川魚が並べられています。トノサマガエルほどの大きさの、生きたカエルも、沢山売られていました。 

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 言葉はラオ語なのですが、タイ語が通じます。タイバーツも通用します。二次大戦中までは、フランスの統治下にあったせいで、フランスパンのサンドイッチを売る屋台が、そこここにあります。

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 日本が、アジアで欧米の軍隊を駆逐したので、ラオスベトナムインドネシアは戦後、独立することが出来ました。ここラオスでも、日本のODAのお金で、空港やタイとの国境にかかる大橋や、道路の整備がされています。まだまだ発展途上ですが、中国がこの国にも食指を動かし、領土の拡大を狙っています。

人々は、まだ裕福ではないですが、とても素朴な感じがします。中国の進出でカネ、カネの思想に染まらずにいて欲しい、とつくづく思いました。

帰りがけ道路で花を売る少女の微笑がそんな想いを杞憂するように爽やかでした。

 

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クラシックカメラ

 

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中古カメラ屋さんを覗くと、昔使っていたカメラなどが並んでいて懐かしい思いをすることがあります。しかし、フイルムの時代の写真はとても難しく、現在のようなデジタルと違って、ただシャッターを押せばよいというものではありませんでした。

第一フィルムを現像するまでは、どのように写っているか知りようもなく、随分と失敗写真を生産したりしました。ですから、今こうした昔のカメラを見ても、大変だったなーという思いが先に立ち、もう一度使ってみたいなどという考えは浮かんできません。

 

それにフイルムというものが、大層かさ張りました。近くや国内の旅行の場合はともかく、海外となると大変でした。特に発展途上国に行くときは。特にプロなどが使うリバーサルフィルムというフイルムは、ヨーロッパやアメリカにおいてさえ、簡単に手に入りませんでした。現在でもそうでしょうが、当時は特に、写真という文化において、日本ほど突出している国はありませんでしたから、色々なフイルムが、すぐに手に入るという環境は、世界でもそうはありませんでした。

ですから、アフリカや南米やインドなどへの長期旅行の際は、フイルムだけでトランクの半分を占領してしまう始末でした。それが今のデジカメでは、切手ほどの大きさのメモリーカードを数枚持って行くだけで事足りてしまいます。しかも、かなり辺鄙なところ以外の街中では、どこでも入手しやすくなりました。

そんな大変なフイルム時代のクラシックカメラを見ていると、時代の変遷による文明の進化をつくづく有難く思います。

 

 

街から消えつつあるもの

ここ何年かで町の風景から消えてゆくモノがあります。郵便ポストもだいぶ減りました。メールが一般的になったせいでしょう。

電話ボックス。赤電話はすでに消え去っていますが電話ボックスもめっきり減りました。携帯電話が人口よりも多く出回っていますが、それが原因です。

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板張り外装の家もごく限られてきました。おじちゃん世代は懐かしさも感じて、好きなんですが防火の観点から新しく建てる場合は、防火材の使用が義務付けられていますから、いづれこうした風情のある日本家屋は消え去る運命にあります。惜しいです。

 

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新しいもの全てが"良い"わけではないのですが、世の中が世知辛くなってきたので我慢しなくてはならないところなのでしょう。しかし、日本独自の板張りの家などは、何とかして残してほしいものです。日本人のことですから、板に塗る塗料に耐熱性の防火剤をコンクリートと同様の防火効果のものを作ることなど、そんなに難しいことでもないように思いますが、何かの思惑でも働いているのでしょうか。

そうしたものが出来れば室内の木材にも塗布して、火災から守ることも出来るはずなのですが。ステルス技術を発明した日本人に出来ないはづはないと思うのですが、如何なものなのでしょう。

 

 

ふたたびの新撰組

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京都 壬生寺にある近藤勇銅像


金儲けだけが目的の坂本竜馬が、長州に薩摩を介して、イギリスの武器商人グラバー(長崎のグラバー邸で有名)から、最新式の大砲やら鉄砲やらを、大量に仲介して大金をつかみ、長州との宥和を取り持ち、幕府を倒す結果につながりました。

そして、さんざん攘夷(外国人を排斥する)、攘夷と言っていた長州でしたが、途中、長州とは犬猿の仲だった薩摩が、幕府を裏切り長州と手を結び、薩長軍として幕府側に、刃を向いたときあたりから、形勢が変わってきました。

幕府寄りだった諸藩も、最新式の武器を備えた、薩長の軍事力の強さに、次々と変節し、薩長軍に与してゆきました。新撰組にとって、京都での最後の戦いであった、鳥羽伏見の戦闘では、この武力の凄まじさが炸裂しましたが、幕府軍にも、フランスがついていましたので、徳川慶喜がいる大阪城に、1万5千の幕府軍が結集すれば、5千しかいない薩長軍に、十分対抗できる余力があったはずです。

しかし、想像も出来ないことが起こりました。なんと、総大将である慶喜が、突然、変装をして部下を置いて、大阪城から船で、江戸へ逃げ帰ってしまいました。沈没した韓国のセウォル号の船長のようにです。こんな将軍は、前代未聞です。これでは家臣の士気も、しぼんでしまいます。これを契機に、幕府軍の総崩れの戦いが始まりました。

明治になり、新政府を作った薩長ですが、あれほど攘夷といって外国を嫌っていたのに、まるで猿真似のように、洋服に身を包み、西洋の社交場の物まねの、鹿鳴館を作り、すっかり外国かぶれとなって行きます。

尊王攘夷と、言っていた薩長の連中は、天皇を利用して、自分達が、権力の中心に、座りたかっただけでした。その証拠に、下級武士だったり、使用人だったりしていた者たちが、明治になって伯爵だの、子爵だのと爵位を、私にしています。

 

「勝ち馬に乗る」、日本人として、最も忌み嫌う言葉です。世の中は、打算だけを考えれば、その方が得かもしれませんが、人間としての誇りは、微塵も感じられません。裏切った薩摩や、外国かぶれになった長州や、部下を置いて、さっさと逃げ去った慶喜と比べ、負けるのが分かっていても、変節や裏切りなどしない新撰組の潔さ、これこそ日本人の鑑だと思います。真の日本人の、新撰組の生き様は、現代の日本人にとっても、とても重要な指針になると思います。

 

 

ふるさとへの思い

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永井荷風の小品『虫の声』に
「東京の町に生まれて、そして幾十年という長い月日をここに送った・・・。
今日まで日々の生活について、何のめずらしさも懐かしさをも感じさせなかった物の音や物の色が、月日の過ぎ行くうちにいつともなく一ツ一ツ消去って、遂に二度とふたたび見ることも聞くこともてきないと云うことが、はっきり意識せられる時が来る。すると、ここに初めて綿々として尽きない情緒が湧起って来る-別れて後むかしの恋を思返すような心持である。」
「樹木の多い郊外の庭にも、鶯はもう稀に来て鳴くのみである。雀の軒近く囀るのをかしましく思うような日も一日一日と少なくなって行くではないか。」

という文章があります。東京小石川に生まれ、東京の町で育った荷風にしてみれば、年々薄れ行く鳥のさえずりや、物売りの声や町の変貌にある喪失感を感じずにはいられなかったのでしょう。「江戸耽美主義」を標榜されていた荷風にとっては、ふるさとである東京の、年々というより日々変わり行く有様に我慢ならなかったのでしょう。

誰しも、ふるさとの急激な変貌を喜ぶ人は多くはないでしょう。しかも、そこに日々生活し、町の散歩を生活としていた作家荷風にとっては、つい先日歩いた場所に新しいビルが建ったりするのを見せ付けられるのは我慢が出来なかったのでしょう。特に、歳をとると急激な変化に対しては違和感を覚えるようになるものです。