巣鴨真性寺 江戸六地蔵の一つ 

 

f:id:mitokioquerido:20190723111642j:plain

ウィキペディアには、以下のように書いてあります。

江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706年)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に丈六地蔵菩薩坐像を造立した。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものである。

 
大きな地蔵尊の像の前には、いつ行っても花と線香の煙が絶えません。お地蔵さまの名で親しまれる存在ですが、近くにある"とげぬき地蔵"で有名な高岩寺もあり、紛らわしいこと。
 
矢田挿雲の"江戸から東京へ"では、とげぬき地蔵高岩寺は得体の知れない寺で、明治のころ台東区にあったのが何かの事情で、今の地に移って来たとかで、由緒からしたら断然、この真性寺に軍配が上がるようです。しかし、世の中は、得てして由緒正しい真正のものよりも、いくらかいかがわしい方を好む傾向があるようですので、門前のにぎわいも、とげぬき地蔵の方に偏るようです。

北千住

f:id:mitokioquerido:20190723111146j:plain

2年ぶりぐらいになる。久しぶりの北千住。古いものと新しいものが、調和しながら共存している東京では珍しい街。

奈良や京都では、普通の光景だが、何もかも壊して歴史を葬り去ってしまう大都会の東京では、とても珍しい存在の町だ。

江戸四宿のなかでは、一番人口が多かった千住宿、400年ほどの歴史がある街だ。一度来て見ると、その魅力の虜になる人が多いとか聞くが、かくいう自分もその1人。確かに、いにしえと、現代が同居している魅力がありたまらなく居心地がいい。

行き交う人も、若い人ばかりでなく、老人ばかりでもなく、とてもバランスの取れた構成が見られる。

そんな北千住の街で、100年以上続いているそば屋さんに、たまたま入ってみた。午後4時ごろだったが、店内は満員だった。テーブルを片付ける間しばらく待って席に着く。そのときには数組の先客が、同時に会計をして出ていったが、しばらくすると、また満員になった。
すごい繁盛だ。

f:id:mitokioquerido:20190723111204j:plain

腹が空いてたので、たぬきそばの大盛りを注文したが、そのでかいこと。大盛りでこんなに大きいのは初めてだ。

f:id:mitokioquerido:20190723111220j:plain

完全に、2人前の量。さすがにこれだけの量は食べきれずに、またお行儀悪く、残してしまった。どうも、食い物となると意地汚さが抜けていない、年寄りになってきたようだ。

支那と気候変動

f:id:mitokioquerido:20190723104826j:plain

梅雨は明けたらしいが曇り空の中、昼過ぎまで小雨が降っていたが、午後に入り止み、夕方が近づくと晴れ間が出て、蒸し暑くなってきた。

元気だとすぐにどこかへ行きたくなるので、早速いつもの御茶ノ水方面へ。雨上がりは大分蒸すが、それでも雨が降っているよりは気分が高揚する。

f:id:mitokioquerido:20190723104844j:plain

暑さで参っている人もいる。雨が大分前に止んだので傘を持つ人はいない。これだけ陽が挿していると、まさか傘でもないだろう。

しとしと、じめじめの梅雨はいやだ。もっとも梅雨が明けても猛暑の夏が来るのは、うんざり。日本列島の夏も過ごしにくくなってしまった。

御茶ノ水では、いつもいつも同じコースの散歩になる。以前と違って近代的なビルばかりになってしまった。でも、緑が結構多くてホッとする空間もある。そのせいか心なしか、空気も何となく新鮮な気がする。

なんだか梅雨は明けたのか。先日までのように雨はあまり降らなくなった。暑さも全く真夏の猛暑が続く。このところの陽気は、完全に以前と違って狂ってしまった。

シナの発展とともに増えだした排気ガスによる大気汚染と、工場や家庭から出す汚染水によって、川や海を汚して進むサンゴや海草が死滅する"磯焼け"による魚介類の死滅。さらに日本近海に出漁してきて、小さな目の網で根こそぎ盗り尽くしてしまう"爆漁"。これらの結果、マグロ、カツオやアジや秋刀魚、サバ、イカなどの魚が激減した。ウナギなど数年以内には日本人の口には入らなくなるだろう。
 
地球上で生まれてくる赤ん坊の四人に一人がチャンコロ支那人だ。世界の人口の4分の1が、こうしたマナーも道徳観も常識も教養も皆無のケモノ以下の人種のチャンコロなのだ。
 
支那朝鮮に汚染されたマスコミはこんな支那人などの悪行は一切報道すらしない。イギリスのマスコミが支那が世界の報道機関に金をばら撒き、支那の悪口を書くなと工作していると先日伝えた。アメリカはもちろん日本の全ては支那の工作機関になっている。

こいつらの増殖や、日本への渡航、いわんや住み着きなど絶対に阻止しなければ、人肉食大好きなチャンコロたちに日本人は食われてしまう。
 

有楽町

f:id:mitokioquerido:20190719230532j:plain

 変わってしまった有楽町は、その昔(どのくらい昔かは人によって異なるだろう)よそ行きの街で、親に連れらて行くときは、一番いい洋服を着てゆく所だった。

デートをするようになった時分でも、やはりそれは変わらなかった。東京人にとっては、まさに特別な場所だった。「だった」と過去形で書いたのは、バブルの終焉とともに、その様相が変わってきて、大人の町から、ほかの繁華街と同じ様に若者の街に変容してしまい、よりによって汚くて下品な支那人たちまでが闊歩する場所になった。。

そんな街には少しも魅力を感じなくなってしまった。荷風池波正太郎ではないが、根っからの東京人には、変容してゆく街になど何の魅力も感じない。そういう街に、魅力を感じるのは他所から入ってくる人たちだけなんだろう。今や東京の繁華街もあちこちに広がり、銀座だけが特別ではなくなってしまった。昔人間にはなんか寂しく詰まらなく、味気ない東京が広がってしまったような気がしてならない。

駒込霜降り商店街

 

f:id:mitokioquerido:20190724001653j:plain

霜降りの商店街です。元気な時は、よく散歩しました。ここを通って染井の墓地を抜けて巣鴨駅を過ぎて、一周すると約2時間半の散歩コースでした。1万2千歩ほどの散歩になります。
 
ここではほとんど買いものしたことはありません。散歩の途中での買い物は持ち重りがして歩けなくなりますから。この道はただ単に散歩だけに使います。

f:id:mitokioquerido:20190724001713j:plain

大して興味を引く何かがあるわけでもなし、距離稼ぎのための散歩道です。今ではめったに通らなくなりました。

江戸名物の一つ「お稲荷さん」

f:id:mitokioquerido:20190719230602j:plain

花のお江戸の名物と言うと次のものが有名です。

武士、鰹、大名、小路、広小路、茶店、紫、火消し、錦絵、火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞
(ぶし、かつお、だいみょう、こうじ、ひろこうじ、ちゃみせ、むらさき、ひけし、にしきえ。かじけんか、いせや、いなりにいぬのくそ)

「火事に喧嘩に中っ腹」と言うのもありますが、ちゅっぱら、とは怒りっぽい、つまり「短気」と言う意味で使います。怒るのは立腹ですがその中間で中っ腹とはいかにも江戸言葉ですね

商売のうまい伊勢商人近江商人が大挙、経済発展している江戸へ押し寄せ、伊勢丹、伊勢五、伊勢辰、伊勢甚、ちきり伊勢屋などと、伊勢のついた伊勢商人の店が日本橋や伝馬町辺りにたくさんあったそうです。三越も伊勢の出ですが屋号は越後屋です。

それらの店では、地元から従業員を連れてきました。江戸には、そうした地方からの人々がやってきたので、それぞれ自分の信仰する稲荷社を、路地裏や店の前や裏に祀ったので、小さな稲荷があちこちに出来ました。現在の東京でも、小さなお稲荷さんはよく見かけられます。

犬の糞は文化文政の頃には人口が多く、ゴミが大量に出たので、野良犬が増え、街のあちこちにフンが落ちていたからでしょう。江戸っ子は、江戸の人は情があるから、野良犬にもたくさん食べさせてあげるからフンが多いんだ、と見栄を張ったりしたそうです。

根津神社

 

f:id:mitokioquerido:20190610225549j:plain

根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建している。
江戸時代五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座した。
明治維新には、明治天皇御東幸にあたり勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められる等、古来御神威高い名社である。


御祭神
須佐之男命・大山咋命誉田別命・相殿・大国主命菅原道真とある。ずいぶんと古いのだ。以前から何となく来ていた神社なので、こんなに古いとは知らなかった。

須佐之男命を祭神としてお祀りする神社は、都内だけでも100社以上に亘り、『古事記』の記述によれば、神産みにおいて伊邪那岐命(いざなぎ)が黄泉の国から帰還し、日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、左目を洗ったときに生まれた天照大御神の弟として、鼻を濯いだ時に産まれたとされている。荒ぶる神で、姉の天照大御神を困らせて、天岩戸に隠れさせた故事は有名な話。その後、ヤマタノオロチを退治する話があり、極めて人間的な神として知られている。

倭武尊(ヤマトタケル)が創祀したと書かれているが、この神は悲運な方だった。第12代景行天皇皇子で、父の天皇に兄を殺したことから疎まれて、辛くあしらわれてしまい。父天皇に反発する九州の反対勢力を制圧して帰郷する間もなく、すぐに東国の敵の制圧を命じられ苦労した末、父への不信感に苦悩しながら、帰路途中で客死してしまう。

根津神社にそんな歴史があるとは、あまり知らなかったが、都内にも古い歴史がたくさんあるので、ただ散歩していてもいろいろ勉強になるものだ。

樋口一葉のたけくらべ

f:id:mitokioquerido:20190610110859j:plain

f:id:mitokioquerido:20190610110915j:plain

f:id:mitokioquerido:20190610110937j:plain

f:id:mitokioquerido:20190610110955j:plain

             大音寺

『廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火ともしびうつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來ゆきゝにはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前だいおんじまへと名は佛くさけれど、で始まる樋口一葉の「たけくらべ」という小説はほとんどの方が聞いたことがあると思います。この小説が生まれたのは、一葉が浅草の裏手にある竜泉寺という町に少しの間住んだ経験から生まれました。

あれだけ教養があり努力家の一葉でしたが、当時の文筆業は出版元の都合による買取り制でしたので、書いても書いても貯蓄できるほどの収入は得られませんでした。本郷菊坂で代書やお針の仕事で生計を立てていた一葉でしたが、つきまとう貧しさに困窮して雑貨屋でもして糊口をしのごうと、世間体から知る人のいない竜泉寺に引き移りましたが、やはり商売はうまく行かず僅か9ヶ月ほどで再び本郷に戻ってきました。
その時の経験から「たけくらべ」は生まれました。才能もあり文才も優れていたのに貧しさゆえに花開かずに、重なる苦労から結核に罹り僅か24歳の若さで他界してしまいました。この辺りを訪れると当時暮らしていた一葉の苦しい息遣いが思い浮かぶ感じがしてきます。

 

三越のライオン

f:id:mitokioquerido:20190606090332j:plain

この威風堂々としたライオン迫力満点です。日本橋三越の象徴でもあります。

江戸時代はこの界隈が一番の繁華街でした。色々なお店が軒を連ね、連日江戸っ子たちで繁盛していたそうです。近くには魚河岸まであり、それはそれは賑やかだったでしょう。

吉原遊郭もはじめはこの近くにありましたが、江戸城の近くに遊郭でもあるまいということで、浅草田んぼに移転させられました。ですから浅草の遊郭は新吉原と呼ばれました。

それほど賑わった日本橋ですが、今では金融関係のビルが立ち並び、主だった店はこの三越ぐらいになってしまいました。最近新しいショッピング施設も出来ましたが、往時の賑わいを取り戻すのはまだまだでしょう。

それにしてもこのライオンは堂々として、そんなことには頓着しないぜ、と言う風です。

やせ我慢

f:id:mitokioquerido:20190606084309j:plain


昔こんな話を聞きました。

両親が家の新築を頼んだ時の棟梁が、生粋の江戸っ子。腕は確かでしたが、なかなか頑固だったそうです。ここをこうして欲しいと言うと、「旦那ねー、これはそうしねぇーと収まりがわりいんですよ」それでもなお、そうして欲しいと言うと、「あっしのねー云うとおりでネエと、出来上がりの見栄えが良くねぇんですよ。それでも、よがすか」と、半ば恫喝とも取れる強制的なやり方で、自分流に仕事を進めていったそうです。

まあ、それだけ自信があったのでしょうが、当時の日本では、えてしてお職人さんというものは、こういうタイプの人が多かったのです。

この棟梁根っからの蕎麦好きで、何か店(てん)やもんを取りますというと、必ず、もり蕎麦だったそうです。そしてまた食べ方がユニーク。「蕎麦はねー、汁(つゆ)なんかつけてたんじゃ、ホントの味がわからねぇ」と言っていつも汁をつけずに食べたそうです。面白い江戸っ子があったもんです。

ところが家の新築が終った途端、具合が悪くなり、寝込んでしまい、とうとう危篤になってしまいました。そこで見舞っていた人が、「棟梁何か言い残すことは無いかい」と尋ねると、小さな声で「死ぬ前に、蕎麦に汁をつけて食いてえ」と言ったそうです。

江戸っ子のやせ我慢も、程々にしないといけませんね。

都電の走っていた茗荷谷界隈

 

f:id:mitokioquerido:20190606082342j:plain

文京区の名前にふさわしい学生の町として発展してきた茗荷谷だが、今でもお店などが少ないが、おじちゃんの子供の頃はとても淋しいところで、学校以外は何もなかった。

御茶ノ水女子大、跡見女学園、貞静女学園、拓殖大学、都立竹早高校、東京教育大(現在は筑波大学としてつくばへ移転)、それらの付属小学校などもあり、まさに学生の街の様相を呈している。

ここには現在地下鉄丸の内線が通っているが、それ以前は都電16番が山手線大塚駅からここを通り、本郷、湯島、上野広小路を経て錦糸町まで走っていた。この線は今ではバスに変わり、同じコースで運行されている。

その茗荷谷だが駅前(戦前の兵法工廠だということを聞いた)の再開発で25階建てのタワーマンションと商業施設などのビルが建ちいくらか様子が変わった。周辺にはマンションが林立して様相が変わってきた。

夏目漱石の「それから」では、この茗荷谷周辺から伝通院付近に掛けてが舞台の中心になっている。漱石の時代には、まだ舗装も無く雨が降るとぬかるんで坂道の歩行が難儀だったことが窺える。

今日、東京は日々変遷を続けていて留まる事を知らない。少し経てばまた町の様相ががらりと変わり、以前よく知っていた通りさえも数ヶ月の内に全く違った通りのごとくに変えられてしまう。もう少し変化のスピードを緩めるわけには行かないものかと訝(いぶか)ったところで、最早どうすることも出来ない。東京の町は、そう言う流れの中に日々流されて行く。

乃木大将の旧居 六本木

f:id:mitokioquerido:20190515215627j:plain

その日は展覧会を見た後、そぞろ歩いてすぐ近くの乃木大将の旧居址を訪ねました。

思っていたのとは違い、ひどく質素な佇まいです。大将の人となりが窺われます。長州毛利家の士族の家系で、明治の将軍であり、伯爵でもあった人の家には、とても見えません。

こんな高潔な人物は、今の日本には一人もいません。そして仕えた明治天皇の葬儀出席のあと、帰宅した大将は、妻とともに自刃しました。命をかけて日本を守った、本物の日本人の最後でした。

f:id:mitokioquerido:20190515215718j:plain

二人の息子をも、亡くした日露戦争では、明治天皇に復命の際、「旅順の攻撃には半年の長日月を要し多大の犠牲を供し・・・・・」と述べて、自分の作戦の失敗から、多くの国民の命を落としたことの責任を痛感され、死をもって、国民の前に謝罪したい、といわれた。
「愧ず我れ何の顔あってか父老に看ん」という詩も、乃木希典人間性を、素直に現わしています。

しかし、明治天皇は「今は死すべきときでない」と慰撫し、悲痛の乃木希典に、その心で昭和天皇の教育を頼むということで、学習院院長にと発議し任命されました。

学習院院長在任中の明治45年(1912年)夏のこと、生徒を引率して鎌倉に水泳訓練に行っているとき、天皇の容態の急変を知らされ、急いで東京へ帰り、病床を見舞ったが7月30日、天皇崩御になった。

乃木希典の死が、許されるときがきた、と思われたことでしょう。
9月13日静子夫人を伴って、葬儀に参列し、天皇に最後のお別れをした後、赤坂の自宅にもどり、八帖の間に於いて、自決されました。

武官としての作戦の責任と、多くの犠牲を深く恥じた、乃木希典のこの自刃は、文人としての心情に裏打ちされた、武士道・明治の終焉でありました。

f:id:mitokioquerido:20190515215808j:plain

金沢に行ったときに出会った一家の生活を支える辻占売りの少年とのエピソードが書かれています

三菱財閥の旧居跡

f:id:mitokioquerido:20190515220108j:plain

曇り空から、時々糠雨が降ったり止んだりしている。湯島の岩崎邸に、ついたときも同じ空模様で、何時降りだしてもおかしくない。晴れ男のおじちゃんが、歩いている時は、不思議と雨は降らない。岩崎邸に入った途端、バケツをひっくり返すような雨になった。

なるほど、内部も素晴らしい。うわついた現代の金持ちの、模倣建築とは重厚さが違う。当時は、夏目漱石が嫌った岩崎も、一代で巨万の富を築いた維新成金だったが、設計は、あの鹿鳴館や、ニコライ堂などで有名な、コンドルが担当しただけあって、何もかもが本物でただ嘆息するのみ。

f:id:mitokioquerido:20190515220201j:plain

今の金額にして、この迎賓館だけでも300億円はするそうだ。そして15000坪の敷地内には、兄弟いとこの一族が、20棟の建物で生活していたそうだ。

農民から立身出世した、初代岩崎弥太郎は、よほど強運の持ち主だったのだろう。

f:id:mitokioquerido:20190515220234j:plain

 

振袖火事の本妙寺

f:id:mitokioquerido:20190511163535j:plain

振袖火事の因縁で有名な本郷にあった本妙寺ですが、明治時代に巣鴨の染井の墓地そばに移りました。この寺には明暦の大火災で亡くなった10万人の江戸庶民の供養塔があります。江戸の3分の2と江戸城天守までも焼き尽くした大惨事の振袖火事の火元がこの本妙寺という言い伝えがあります。

f:id:mitokioquerido:20190511163613j:plain

f:id:mitokioquerido:20190511163642j:plain

その他、写真にあるように時代劇で有名な「遠山の金さん」こと遠山金四郎の墓や、神田お玉が池の剣術道場主で、北辰一刀流を編み出した千葉周作の墓があります。千葉周作は、文政5年(1822年)秋、日本橋品川町に玄武館という道場を建て、後に神田於玉ヶ池に移転し、多数の門人を抱えて、江戸に剣術の一流派を興した。周作の門下から幕末の重要人物を多数輩出した。主な人物として浪士組幹部の清河八郎山岡鉄舟新選組幹部の山南敬助などが挙げられ、門弟の井上八郎、四天王塚田孔平、海保帆平、森要蔵らは優れた剣客として名を上げた。(ウイキペディアより)という幕末の剣術指南です。

f:id:mitokioquerido:20190511163708j:plain

東京にも、江戸時代264年間の遺跡や物語が結構残っています。機会があれば少しづつ書いていこうと思っています。

高田馬場のとんかつ

 

f:id:mitokioquerido:20190511125717j:plain

今盛んに凝っている高田馬場とん久の特ロースとんかつです。やはり美味しいのです。何かを気にいると、とことんそれにのめり込む性分なので、今はこのとんかつに御執心です。牛肉より鶏肉よりも豚肉が大好きなので、とんかつは好物の中の上位にランクされます。

30年ほど前沖縄のアグー豚が、内地にも市販され始めた頃、沖縄から高い航空賃を払って何度か取り寄せたことがあります。バラ肉こそ本当のうま味があるので、いつもバラ肉の10Kgの塊りを取りました。これは本当に幻の豚という通り絶品でした。最近ではどこでも購入できますが、その時のアグーの味とは全く別物です。ごく普通の豚の味です。本物はまったく甘みが違います。

また脱線しましたが、今日のは前回のよりもかなり味が落ちました。仕入れの肉の質や、揚げ方の微妙な違いのせいでしょう。でも十分合格点のものです。ただ残念なのは、歳のせいで全部は食べられなくなっていることです。ご飯は半分にしてもらっていますが、それさえ半分は食べられず、大盛りのキャベツも3割ほど、付け合せのナポリタンには、箸もつけられませんでした。食が細くなり若い時のように食べられなくなったのが、とても残念です。